本

『罪と罰と精神鑑定』

ホンとの本

『罪と罰と精神鑑定』
影山任佐
集英社インターナショナル
\1365
2009.4

 サブタイトルに「「心の闇」をどう裁くか」とある。「心の闇」という語を、特定の犯罪者だけがもつもの、という味方を助長するために用いることについては、私は批判的である。この著者も、それに近いような使い方をしているように見受けられる。ここでは、信じられないような犯罪を実行してしまった人に迫るために、この語を用いている。
 ただ、ここではあくまでも、精神鑑定という仕事についての理解を求めることが主眼である。そのために、よく知られた犯罪事件を例示して、その被告あるいは犯人を裁くために、精神鑑定が用いられることがあること、それはどういう観点から実施され、どのように判決に影響するのかなど、実際に精神鑑定を実施している本人でなければ分かり得ないような事柄について、人々に説明しようという意図がはっきりしている。
 つまりは、これは始まった「裁判員制度」のための本である。ただ、それを表に出していないので、もしかすると裁判員に選ばれた人が手にするかどうかというと、怪しいのではないかと思われる。売るためには、そこまで持ち出してよかったのではないかと思う。
 それから、題にある「罪と罰と……」のフレーズは、普通名詞としてしか響かないのであるが、本を開くと、最初にドストエフスキーの文学が展開されている。これは、本の終わりのところまで響いている。結局この本は、ドストエフスキーの『罪と罰』のテーマを背負っているのであった。なんだ、そうならタイトルやサブタイトルに、それと分かるようにすると、ドストエフスキーを知っている人もこの本を手に取るだろうに、と思った。たとえば『罪と罰』と精神鑑定、のようにする。ただし、この文学作品を研究しているのではないから、やはりこれでは問題があるだろう、ということで、タイトルには実現しなかったのではないか、と思われる。
 あまり本の売り方についてとやかく言うのもどうかしている。
 読みやすい本である。内容が少なく、文字数も少ないというせいであるかもしれない。掲載されている事件はよく報道されたものであるだけに、少しばかりそういう情報を耳にしていれば、あるいはテレビのワイドショーでも見た記憶があるならば、殆ど抵抗なく読み進めることができる。
 ただ、表現上若干酷いところがある。いや、事態を説明するにはそれは当然だ、という意見もあるだろうが、また別の著者になると、その辺り実にソフトに、だが必要な情報は的確に伝えるという筆の運びができる人がいる。あるいは、その残酷さを伝えなければ説明にならない、という考えもあるだろう。だが、すでに裁判員ならずとも、遺族に対して酷い映像を突きつける裁判が現実に行われ始めているわけで、裁判の席で二度目の被害に遭う、という言い方をする人もいるのであるから、うまい表現工夫というものはあってよいのではないかと思う。
 それから、だからこうなのだ、という強い指針も本全体から感じられなかった。精神鑑定の問題点を挙げるのがこの本の役割だ、というふうな考えも述べられているから、その問題点に対する歩み出しを要求するのは読者として意地悪なのかもしれないが、精神鑑定の問題を挙げるというだけでは、この時世、情報量が少なすぎやしないだろうか。それなりにテレビのワイドショーでも、法律や法医学あるいは精神医学などの専門家が脇に出演していることがあり、そこそこのことを視聴者に伝えてくれる。精神鑑定の問題点も、それなりに広く世間に伝わっていると思うのである。それ故、その問題点をどうやって乗り越えていくか、そこに多くの読者の関心があったはずである。タイトルが極めてスケールの大きいものになっている一方、「精神鑑定は難しいんです」では、期待外れである。
 薄いこれだけの本に要求するのは酷かと思うが、そういう色々な面でバランスの悪い出来になっているかのように見える故、敢えて指摘してみたつもりである。




Takapan
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