本

『つめたいよるに』

ホンとの本

『つめたいよるに』
江國香織
新潮文庫
\400+
1996.6.

 きっかけは、図書館で見かけた『ダ・ヴィンチ』という雑誌だった。2023年の7月号。ヨシタケシンスケさんの特集記事があるので開いたのだが、この号には早見沙織さんの頁もあった。言うまでもなく、私の最も推している声優さんであり、いま引く手あまたのアーチストである。ラジオ番組も欠かさず聴いている。
 この雑誌は、本についての雑誌だ。そこで早見沙織さんの一冊なるものが取り上げられていたのだが、それが本書『つめたいよるに』である。これは読まねばなるまい。
 幸い、江國香織さんの本は、古書の棚に必ずある。100円程度で買えるものが多いから、負担も少ない。それでも、近くで探せる古書店の3つめでやっと出会えた。  「つめたいよるに」、これはいわば童話集である。本書には同時に「温かなお皿」という作品集が収められており、こちらは食事にまつわるショートストーリーであり、だいぶ「おとな」の作品だ。
 星新一のショート・ショートのイメージがあったけれども、江國香織さんのショートストーリーの魅力に、すっかり捕らえられてしまった。
 流行作家としての彼女のことは、知らないわけではない。テレビドラマや映画になって、相当ヒットしたことも知っている。だが、まともに読む機会がなかった。ほかの方面で余りに読むべきものが多かったからである。
 だが早見沙織さんを通して出会わせてもらった本書は、楽しくて仕方がなかった。短い話ばかりなので、ちょっとした時間の隙間でも読める、と思っていたのだが、気がつけば一気読みに近い形で、どんどん読んでしまった。
 童話の方では、幽霊的なミステリーや、幻想的な中に人生の真実を感じさせるもの、はちゃめちゃ弾ける気持ちのものなど、とにかく一つひとつが心に刺さる。
 思うに、似たような設定というものがなく、一つひとつ、すっかり違う世界を見せてくれるのである。語り手なる主人公も、性別や年代、置かれた環境や時代、実に様々で、目まぐるしく入れ替る。そこで、短い物語であるとはいえ、最初のところをよく呼んでおかないと、その場面に参入できない、という当たり前のことを痛感させられた。だから、冒頭部分はまた読み直してから2頁目に進む、というようなことも度々あった。えっと、これはどんな場面だっけ、と呟いている。いま読み終わった話の余韻がまだあるために、その舞台を一度片付けてしまわねばならない。頭の中を一回空にして、舞台を設定し直してから、新たな舞台を見始めると、ええっとね、となるのである。
 それから、謎の展開の種明かしなど野暮なことを、少しもしない。確かにそれは幽霊かな、と思わせるにしても、幽霊だ、などということは口が裂けても言わない覚悟で書いてあるのだ。「解説」で川本三郎さんがうまいこと書いていたが、「最後のところで作者は、ふっと読者の前から姿を消していく」のである。作者が不在なのに、そこに物語が残っている。読者の心に、物語の次がふと流れてゆく。しかし、物語はちゃんとそこで完結しているのだ。続きがあるわけではない。続きを必要ともしない。しかし、読者の心が、勝手に何かを響かせている。やはりそれは「余韻」としか言いようがないものなのかもしれないが、不思議な魅力である。
 大人向けの方では、絶対にこうだ、というような場面の設定をぼかしながら、読者には、ここはこういう場面で、こういう人物関係なのだ、ということが必ず分かるように仕向けているものもあった。否、ほぼそういう仕掛けで物語が始まり、さして説明を施すことなしに、読者の中で勝手に物語が組み込まれ、背景もすっかり埋められるようにしながら、文字の上だけで物語は進んで、終わる。そこでは、同時に本を読み終わった他の多くの人々が、一斉に拍手を贈っているのが分かる。
 だからこれを「巧い」というふうにしか、私には言えないのであるが、特に、うまくいかない夫婦のそれぞれの心理だとか、それからなんといっても子どもの視点から見える風景だとか、その都度私をその現場に誘い込み、連れ回すようなストーリー展開に、なんだか妬みすら覚えるほどだった。
 ただ、小学四年生の三人の作文が物語となるものについては、絶対これは巧すぎる作文だ、と少しリアリティを欠いていたが、それをもまた、計算ずくで、架空の背景を想像しやすいように仕向けたのだな、ということくらいは、私にも分かった。
 ただここには、人と人とが出会ったとき、向き合ったとき、どんな心の模様が生まれるのか、そんな空間が確かにあったと思う。時間の経過ももちろん物語には必要だが、私には、これらのショートストーリーには、1枚の絵として表現するに相応しいものが多かったような気がする。その意味では、読書感想画に選んだら、きっと面白い絵になるのではないだろうか。30年余り経っても、決して古びることはないものが、ここにあると思う。




Takapan
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