本

『〈つまずき〉のなかの哲学』

ホンとの本

『〈つまずき〉のなかの哲学』
山内志朗
NHKブックス1076
\966
2007.1

 これはいささか堅い。実に軽妙な、ユーモアあふれる語り口調も、その話す内容にひっかかることがなかったら、何の興味も呼び起こすまい。
 そう、言葉がつねにどこでも自分にとって意味をもつものとして伝わってくるところ、そこに、私たちは耳を向け、心に焼き付け、目で確認する。受験勉強にも、そうした鉄則はあるはずだ。
 著者は、中世哲学史に造詣が深く、この本にしても、題に現れてこないのが不思議だとも言えるが、「謎」がテーマである。そもそも謎とは何か。何が謎なのか。その検証に、多大な時間を割くことになるかもしれない。
 ヴィトゲンシュタインの一生は、その謎を無に帰すような試みを天才的に完成させた後、その謎が払拭できなかったことを悟り、いわば諦観を示すような雰囲気をもたらす。
 そこには、カントの倫理学も入ってくる。
 この程度で、哲学史はひととおり全部外観できるのだ。それを見る眼差しを養ってほしい。
 哲学の切れ味から、この「謎」に始まり「謎」に終わる、ただし途中はさまざまな経験を増やすために仕組まれたようにも見えるのだが、やはり謎でしめくくるあたりがにくらしい。
 パウロの手紙の中に、この「謎において」の語句があり、それは日本語訳聖書ではそのようには記されていないから、私は、これはよいテーマだと感じて、買い、読んだ。
 かなり難解な議論もあるが、全体的に、鮮やかに時間が流れていくようだ。
 少々の言葉におびえない人は、この本そのものを読んでもよいだろう。だが、これはたしかに人生論である。哲学の中の「私」であるという性質を、考え抜くとどうなるかという、一つの道筋でもある。
 それにしても、教会学校で、毎回「謎」を私は提示している。謎とは、実に細かく丁寧に考えると、奥が深いものである。これは、聖書の信仰のあり方に近いようなのだが、私はそれで、なるほど、と思えた。
 私が哲学を求めたというのも、多分に、この著者と同じ構造の考え方や感じ方をしていたからではないか、とも思う。こんなに徹底して考え抜いたわけではないが、共鳴する部分は多かった。ただ、それも私にとっては長らく「謎」であったわけで、それをこの著者が明らかにしてくれたのかもしれない。




Takapan
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