本

『月と散文』

ホンとの本

『月と散文』
又吉直樹/KADOKAWA/\1600+/2023.3.

 芸人(と敢えてご紹介する)の又吉直樹氏が運営するウェブサイト・オフィシャルコミュニティ「月と散文」に、定期的に掲載している文章の、1年半分が1冊の書にまとまった。ウェブサイトは月額1,000円で会員となれるが、本書を購入すれば1760円で読むことができる。但し、ずいぶん後になってのことである。
 エッセイと呼ぶべきだろうか。自由に、近況や思い出話など、文才豊かな著者が綴ってゆく。文章については定評があったが、初めて中編小説として世に問うた作品『火花』は、芥川賞を受賞した。
 だから、小気味よい文章が、この1冊にも縦横に鏤められている。もちろん、好き嫌いはあるだろう。時にくどい書き方をするようにも見え、またテレビで見る当人の姿がどうしても重なって不愉快さを覚える人もいるかもしれない。しかしまた、飄々としたなりふりが、演技ではなくありのままの当人であるということを理解した上で、その人柄を好きだという人もいるだろう。
 本書が発行されてすぐに、NHKの連続テレビ小説「舞いあがれ!」が完結した。出番が多かったとは言えないが、又吉直樹氏は、古書店を営みつつ漂泊の旅人のような立場を演じていた。それもまた演技ではなく、ありのままの姿であるように見受けられた。最後のシーンを作り出すための、重要な役どころでもあった。著者自身というものを私は知らないわけだが、きっと本当にこういう人なのではないか、というふうに拝見していた。
 さて、生活から書くネタを探すというのが普通であるから、どうしても芸人関係の内容も多い。もちろん悪いことではない。テレビなどで見る芸人さんの姿しか知らない私たちからすれば、私生活は知らなくてもよいわけではあるし、舞台やその芸は、必ずしもその人そのものを出しているわけではない、ということは基本的に了解済みのはずである。だが、本書を見ている限り、この人はなにも演技をしているのではないのかもしれない、と思わせるものがあると感じる。
 いや、感じさせているだけなのだろうか。心の中で「こいつめ」と怒りを抱くような話もある。ずいぶんとあっけらかんと、感情を出しているようにも書いてある。そのように、人間又吉直樹として読むのも面白いだろうと思う。
 文章が巧いのはもちろんである。だが、たとえばそれは、突如全然違うものを喩えのように引き出してくる、という場合が多いことにも気がついた。あまりにも無関係なことを持ち出してくるので、その飛躍に笑ってしまう、ということが漫才でもあるだろう。それは文章でも同じなのだ。なんでここでそれを持ち出すん?と思うほどに、意外なものを持ち出して比べるとなると、その落差のようなものにおかしみを感じるのが、人間の「笑い」の感情のひとつの要素であるだろう。以前、そのような理屈を学んだことがある。
 私たちがあまりにも普通に考えていることをただ踏襲しても、面白くない。しかしあまりにも異次元のことを持ち出してきても、私たちは引いてしまう。あるいは、その思考回路についていけないだろう。皆が知っていることでなければ、おかしさを感じることもできまい。しかし、すべての人が知っていることをただ喋っても、だからそれがどうした?ということになりかねない。思えば、「笑い」というものは、その絶妙な噛み合いという点で、非常に難しいものである。
 確かに、漫才のようなノリを感じることが多々ある。やっぱり、それがひとつのベースにあるのだろう。自分を卑下したり、どうぞ笑ってくれ、というような魂胆で話題を持ち出すなど、やはりこれは一種の漫才の舞台なのだ、というふうに捉えたら、だいたい味わい方が定まってくるのではないかと思われる。単なる創作ではない。身の上話ということで、それは本当にあったことなのかもしれないが、もし多少想像上のものが混じっていても、何も咎める必要はないだろう。それがネタであるのならば、笑って差し上げるのが礼儀というものだ。
 但し、落語とは異なり、漫才は、同じ芸を何度も何度も見たいとは思わないものである。本書も、一度通り過ぎれば、それだけ、というふうな気がしたのだが、さて、失礼な言い方であっただろうか。




Takapan
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