『辻まことの世界』
矢内原伊作編
みすず書房
\1800
1977.11.
表紙の「辻」は、点が二つあるしんにょうである。詩人、また画家として知られた。
無教会の指導者として有名な矢内原忠雄を父にもつ哲学者の矢内原伊作が編者であり、解説も加えているということで選んだのだが、そもそもこの辻まこと(本名としては名前は「一」と書く)という人物については、別の角度から存じ上げていた。
父親は辻潤。これだけでピンとくる人もいるかもしれないが、母親は伊藤野枝である。伊藤野枝の最初の夫であり、分かれた後まことを育てた。伊藤野枝は、『青鞜』の筆者から、平塚らいてうから奪い取るようにしていわば編集長へとなり、その過激さの故に休刊させたアナーキストである。そして、関東大震災のごたごたの中で、当局の手によって、大杉栄らと共に惨殺される。いわゆる「甘粕事件」の被害者である。没したのが28歳。
その血を引く一人が、この辻まことである。伊藤野枝は福岡の今宿生まれであり、辻まことも生まれは福岡となっている。そのことからも、私にはどこか親近感を覚えることになった。
画家としての辻まことは、本書に収められているものでいえば「虫類図譜」でそれを感じることができる。見開き左頁線描きの奇妙な想像上の虫、右頁にその短い解説。そういう形式で、延々と文明批評が繰り返される。一つだけ引用するが、「愛」は次のように記されている。
「愛虫は関係をつけにくる。/欠乏がこの虫の本質だから、それをうめようとして近所のものに触手を延ばす。/こんなにも相手のことをだいじがり、こんなにも自分のことしか夢中にならない虫もめずらしい。/すり寄られたからって、すこしも憐れんでやる必要はないわけだ。」
どうにも皮肉めいていて、また斜に構えた見方だろうが、一抹の真実を含んでいるからこそ、そう思えたのだし、受け取る方も受け容れたのであろう。ルナールの『博物誌』の、ひねくれたものだ、とでも想像して戴けたら少し雰囲気が分かるだろうか。
これには、草野心平の「序」が付されており、短いが、なかなかお洒落である。
他には、折に触れてのエッセイがたくさん収められていて、編者は、辻の著書からや、各方面で書いた記事や文章を集め、本書にまとめている。芸術を感じさせるものや、好きな山についての話などが多いが、ひとつだけその中に、「おやじについて」という文章が、短いながらに掲載されている。もちろん、辻潤のことである。
伊藤野枝の生涯を辿る本の中で登場する辻潤は、どこか流されるままに引き寄せられては離されてゆく、意志の弱さすら感じさせる描かれ方をしていたが、様々な領域での執筆者として、器用な人であったようだ。英語教師をしていたときに、福岡から逃げて来た伊藤野枝と出会う。晩年は精神を病み、太平洋戦争末期に当局から目をつけられ、食糧が配給されずに最期は餓死するのだが、そうした一面的なプロフィールではない、息子から見た父親というものが、そこには描かれていた。
私は、それが見たくて本書を読んだのかもしれない。
おやじは、「人間」としての煙ったさをもっていた、というのである。他人が知ることのできない、家庭の中での辻潤というものが、そこには冷静に綴られていた。書物、酒、たばこを愛し、「なんらかの意味でさまざまな表現を残していったが、自分を救済することはできなかった」と評している。さらに、「詩人萩原朔太郎は、おんじをかつて「現代のおかしげなキリスト」とよんだ」とも記している。もちろん、キリスト者であるという意味ではなく、かつては何かと文化人の間で、キリストが様々な場面で話題になっていたが故なのであろう。
どこか世を外れで、別の世界からこの社会を見つめているような眼差しを、各文章が醸し出しているような気がしてならないのだが、一人の生き方をよくよく垣間見るというのは、実のところ人間の真実というものに強い関心をもつことになる、そういう気がする。本書が好評だったために、本書は続篇がつくられている。今日から、それを読んでいくつもりである。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド