『本当の学力をつける本』
陰山英男
文春文庫
\559
2009.4.
本当はこの「陰」の字は、異体のものであるらしい。ひとやねの下にあるのが、「髪」の字の左上の部分になっているものだ。しかしどうやらそれはパソコンのコードの中に含まれていないらしい。常用の「陰」でご容赦願いたい。
副題に、「学校でできること 家庭でできること」とある。実のところ、この副題にも大きな意味と効果が含まれていたことが後で分かる。
この本は、日本の教育を大きく変えた一冊と言ってよい背景をもっている。
百マス計算に限らず、この著者の監修した問題集や記事などをこれまで見たことはあったが、じっくりと、その発端となった信念の塊であるこの本は読んだことがなかった。若い息吹の感じられるこの本だが、概ね信頼できるよい教育書であると感じた。それは、この文庫版の巻末に載せられてい解説を見るとどういうことであるか分かるというものだ。
今となると、百マス計算だの、早寝早起き朝ご飯だのの言葉は、どこででも聞かれるようになってきた。だが、これを最初に訴えたのは十年かそこら前のことに過ぎず、その意義と効果は甚大であった。勇気の要ることであっただろうと思う。
つまりは、最初は大いに非難されたということだ。それも、この本の証言をそのまま用いるならば、行政側が受け容れないということだった。というのは、いわゆる「ゆとり教育」の不備を指摘するものであったため、行政側のいわば誤りをどうしても認めない立場の権力側が、すんなり認めるはずがないからである。
しかし、長期にわたる明らかなデータをもって、都会部にあるとは言えないその兵庫県の小学校における児童の成績がはるかに全国的に図抜けていることと、その保護者たちの反応などからしても、事実は事実として認めざるをえない背景にあった。
教育は、難しい。人を育てることであり、失敗が許されない。実験が理科実験のようになされてよいとは言えない面がある。しかも、教育を受けた人々が将来の国を背負っていく。そういう背景において、自分の信念を実行することは、大いに勇気が必要であったことだろう。それはすべての教員がしてよいとは言えないことである。よき試みであっても、何かまずいことが起こったら、どう責任をとってよいか知れない問題である。実際、うまくいかないことは津々浦々存在することだろう。だから、この本の事例は、一つの成功例に過ぎないと言うこともできよう。単純に誰もが倣ってよいとは言い難い。
しかしまた、この成功例を中途半端に理解して、安易に受け売り方式で取り入れてそれで十分なのかどうか、もまた問題であるはずである。私の目には、この類が少なくないように見える。原理を徹底できず折衷的にやっていくと、むしろ弊害を生むことになるであろう。その意味でも、この本のあらゆる精神を受け継ぐ覚悟とともに実践しなければならないものだと強く思う。
あるいはまた、教育は家庭の問題でもあるということを、保護者たちに理解させ定着させることができたとするならば、表面上の百マス云々とは関係なく、教育上の少なからぬ問題は解決の道を辿ることになる、とも言えるだろう。
2002年、ゆとり教育が教科書を最小頁に抑えてしまった年に、この本は出版された。だがこの本は、そのとき書かれたものではない。教育書としてはレベルが低いとして、何年も出版社が引き受けてくれなかったというものなのだ。この点からも、教育について人々の見る目の安さが明らかになる。多くの人は、政治的だの経済的だの言って、事柄の本質そのものを見ようとはしない。もちろん、奇抜な考えが正しいなどと言うつもりもない。著者はその後一教師でなくなり、大きな視野で大きな教育を動かす力として働くようになっている。教育界は、この本の提案を高く評価し始めた。赤ペンを手に亡くなった同僚への鎮魂歌でもあるようなこの教育改革が、今また十年余を越えて、新たな時代状況において微妙な修正をしつつ、適切に運用されることを願うばかりである。
また、こうしたいわば「あたりまえ」の教育を、真のPTAとして親が協力していく必要を私は強く感じる。おそらく、次にしなければいけないのは、PTA改革であろうからである。すでにPTAは機能していないばかりか、有害ですらある。親が、だめだ。親こそ、教育されなければならない。もはや半世紀前の親の慎みや節度、規範意識というものが壊滅状態だからである。
陰山先生にお願いするのは酷だとは思うが、本当の親力をつける本が、緊急に必要であると私は信じている。いや、正直をいえば、その親の親辺りが、かなり問題であることを、私は確信している。