本

『あなたのガリラヤへ』

ホンとの本

『あなたのガリラヤへ』
今井敬隆
新教出版社
\1500+
2014.3.

 ユニークな説教集である。説教を活字にするなどなんたることだ、というポリシーでいた著者が、ひとつくらい形に遺してもよいのでないか、と半ば妥協のように、あるいはどこか未練のように生み出した本である。自分の言いたいことが多く詰められていると判断したのだろう。よけいな説明をすることなく、説教で語ったことをそのまま文章にしているようなものである。いや、説教はもっと言葉数が多かったものと私は思う。ひとつひとつの原稿が短いからだ。それとも、近年非常に短い説教が多くなってきたとも聞くから、もしかするとほぼこの通りであったのかもしれない。それは私には分からない。
 サブタイトルは「聖書を読む」と書かれている。よく見ると「聖書」のところに「テキスト」とルビが振ってある。ひとつの思い入れなのだろう。聖書そのものが神なのではない。聖書の言葉ばかりをすべて神聖視することもできない。だが、それをひとつの素材として、その背後で神がどういう意図を以ているのかを感じ取ろうとする読み方は、「テキスト」と呼ぶような事柄であるのではないかと感じた。
 その意味で、牧師としての著者は、非常に近代的な聖書の読み方をしている。単純にすべてが神の言葉である、と言えばよいのではないと理解しているのだ。聖書の表現の中にある矛盾事項の説明が、それでは却ってできなくなるのである。聖書として伝えられた文章は、たしかに人間が書いたものである。だが、その背後に、書かせている霊なる神がある、ということで、すべての矛盾や食い違いの責任を、逆に神に負わせないようにもなるからである。
 ところで、牧師は、一般企業で働いた後、学んで牧師となっている。ありがちな牧師養成の路線に乗っているのではない。しかしまた、それゆえに世間というものをよく知っている。その中で、聖書を自分が呼ばれた声と関連しているものとして受け止めている。どうも、教会就任についても、込み入った経緯があるようだ。そして、一種の臨時職のように招かれて担当し、去っていくような動きがあったようだ。
 それも、教団と一騒動があったらしい。それは、聖餐についてである。キリスト教会では、信徒でなければ聖餐には与れない。カトリックは聖体拝領というが、これは実に厳格である。プロテスタントも、カトリックから分かれたときにも、秘蹟として洗礼とこの聖餐とは保っており、聖餐という言葉で信徒の間のひとつの奥義のように理解して受け継いでいる。だから、基本的に、信徒でなけれは聖餐式には加われない。それを、その礼拝に共に出たら聖餐を受けてもよいのではないか、という考えが一部にあるわけだ。ところがそれを各教会が勝手にやると、教団としての責任が問われるのか、するなという圧力が加わる。著者の教会は、この圧力に抵抗している。
 そのためにまた、歴史上のキリスト教会というものが、必ずしも聖書に従っているのではなく、組織の論理で動き、地上権力を誇るという、イエスが拒んでいるあり方に戻ってしまっている、と折々に指摘する。そういう戦いをも、この説教集は隠さず載せている。いや、それをこそ訴えたいのかもしれない、と思いたくなるほどである。
 そういう姿勢であるから、聖書についても、自由主義神学の成果を大いに取り入れ、近年の聖書研究のもたらした、文献としての聖書の捉え方を中心に据えている。いわゆる「福音主義」の立場から見れば、とんでもない見解を、著者は当然のこととして受け止めている。
 では、それゆえにこの説教には福音がないのだろうか。そう単純に考えてはならない。福音とは何か、その問題を根柢から問いなおしているのである。いったい、聖書の権威をかさに、地上での権力を建てた組織行為が、福音であったのだろうか、と真っ向から戦う姿勢である。そしてそれは尤もなことである。
 安易に、聖書の言葉の言うとおり、だから教会の教える通り、という従順な読み方でいいのか、と著者は挑戦する。それは、いつの間にかイエスの精神とは離れた、いや正反対のものに加担させられているようなことになりうるのだ、と警告を発している。だから、自分の生き方を、本当に神と向かい合って問いなおすために、それぞれの説教が実に効いてくるのだ。
 信仰を持ち始めたころ、自分は神と一対一で向き合っていた。そして神からの問いかけを受け、それに応えようと祈った。だがいつの間にか、教会生活を続けていくうちに、組織の一員として、組織のために動くようになっていく。一定の権威を当然のこととして受け止め、いつの間にか神からの問いかけでなく、組織の問いかけにのみ反応するようになっていく。――もし、そういうふうに言われたどきりとするようなことがあれば、この本は役立つ。もう一度、神お一人と向き合って、問いかけられる体験をすることができると思われるのである。
 どこかとぼけた、そして冗談にならないような冗談を交えながら語る著者そのものを崇めようとは思わないだろう。だが、その行間から、不思議と、神が語りかけてくる。「あなたのガリラヤへ」という題は、最後に掲載された説教でその意味が説き明かされる。私は今ここでそれを知らせようとは思わない。初めからこの道案内の中で神ともう一度出会う体験をした読者が、最後に神から問いかけられる、そのことにタイトルは関わっている。
 内容量に比して価格は安い。変な言い方だが、お買い得であるかもしれない。私たちは確かに、自分のガリラヤに戻される。それはマルコの福音書の求めた姿であるとも言える。今ここから再び、イエスに従う旅が始まるのだ。




Takapan
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