本

『当事者主権』

ホンとの本

『当事者主権』
中西正司・上野千鶴子
岩波新書860
\720+
2003.10.

 当事者という表現は、普通の語としてもありえたのだが、問題をかかえている当のその人という形で話題に上ったのは、いつからなのだろうか。本書はその頃に出たのかもしれないし、本書や類書が、その言葉に意味を吹き込むのに大切な役割を果たしたのかもしれないとも思った。
 おおまかに言うと、障害者であれ差別を受けている人であれ、問題の当の本人の意思とは無関係に、周囲が決めてしまうという従来の福祉などの意識を、転換すべき時がきている、というのが本書の内容である。
 障害者問題を、健常者がすべて取りはからう。福祉が必要だというので、健常者が福祉をしてあげますよ、といろいろ決めて制度をつくったり世話をしたりするが、それは当の本人にとってはありがた迷惑であったり、もっとこうしてほしいのに聞いてくれなかったりすることになっている、という問題を主張するのである。
 これをタイトルのように「当事者主権」という言葉で、強く提言したのであるが、私がこの本を読んだのは2021年。この頃になると、この「主権」という言葉は少し強すぎるように見え、また、当事者が決めることの大切さが少しずつ理解されてきて、主権にしろということが中心にきていた時代ではなくなってきたようである。そこで、介護にしろ福祉活動にしろ、かつてはどんなに理不尽であったのか、それを逆に知るためにも、本書は歴史を証言する価値ある記録となっているようにも思われる。
 当事者が自己決定する。当たり前ではなかったのだ。本書は、著者の一人がまさに当事者であり、四肢の麻痺を抱える障害者であるために、そちらの経験からの話が多くなり、それが具体的で生き生きしているのであるが、私がより知るのは、聴覚障害者の問題である。本書ではそれについては殆ど触れられていないが、ろう者が運転免許を取得できなかったり、薬剤師になれなかったり、そんな時代が当たり前で、幽閉すらされていたような歴史を覚えながら、ようやくその後社会が変わってきたという経緯がある。他の障害についても、そのような面があるわけで、本書のように運動をして社会を変え始めたという記録は、いつでもこうした問題を考える人の、標準テキストとなりうるものであると言えるだろう。
 当事者運動が始まり、自立生活が問われてきたこと。介護保険が生まれた背景。介助サービスはどうやって始まり、どう変遷したのか。事業となるときの採算はどうなっているのか。障害者起業も支援するようになった。政府と起業とNPOの役割がどのように違うのか、という説明は明晰であった。
 そもそもただ「してもらう」介護は、うまくいかないのだという。幾度か触れられているが、介助者が度々遅刻してきても苦情も言いづらい時期があったのだそうだ。しかしきちんとペイした形で雇った介助者であれば、契約の問題でもあるし、こうしたときに苦情を適切に言うことができる。このほうが、むしろウィンウィンとなるはずである。
 また、施設はえてして郊外につくられている。それでいいのか。外出がものすごい負担になる。つまり一種の幽閉である。地域の中に、ひとりの人間として、(本書には書かれていないが)共に生きる存在としてつながることはできないのか。私たちもまた、身近なところで車椅子の人をすら、見ることが殆どないのではないだろうか。どうかすると偶にショッピングモールで車椅子の人をひとり見るかどうか、がいいところなのではないだろうか。これでどうして地域に住んでいるというふうに言えるだろう。実のところそうした地域にいないで、親の元で閉じこもっているようにさせられていることが多いのではないのか。親もいつまでも生きているわけではないし、障害者も自立していて当然なのではないだろうか。介助を受けていても、ペイの関係であれば何の引け目もない。自立生活をしているという概念で問題はないはずだ。
 原稿は、上野千鶴子と互いに文章を完成していったために、どこをどちらが書いたかということは明確にしていないが、女性運動や女性学の方面で強い論客である上野氏とのタッグは頼もしい。しかし何も過激な書き方をしている様子はまるでない。最後のところは上野氏だろうと思われるが、問題を敷衍して、性的マイノリティ(その後はLGBTQなどと書かれたことだろう)や患者としての立場である当事者、さらに課題ではあるが、精神障害者について当事者というものをどう捉え実践していくか、そうした眼差しに読者を差し向ける。そこには、不登校の子どもたちをも守ろうとする切実な叫びもあった。
 よかれと思ってしていても、実は優位な立場から、「してやっている」意識であることは、なかなか私たちから去らないものである。本当は「されている」ところもあるはずなのに、自分がするときには、上から目線で、当事者の思いは無視して、イニシアチブをとりがちである。その心理は理解できる。だが、相手はどう感じているのか、どう思っているのか、考えてみれば、それを大切にすることは、極めて当たり前のことである。
 その意味でも、私たちは誰かと向き合うとき、そしてその人に関わる問題を考えるとき、「当事者」という言葉を、まず呟いてみてはどうだろうかと思う。本人はどうなのか。これを無視して暴走することがないように、口にするおまじないであってよいと思うのである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります