本

『東方見聞録』

ホンとの本

『東方見聞録』
マルコ・ポーロ/青木富太郎訳
河出書房新社
\1980+
2022.9.

 歴史の教科書に必ず載っている本。その日本語訳が、読みやすい形で実現した。もちろん、これまでにも何種類か翻訳はあったが、本書は細かく話題について分けて示し、時折史料の写真を置いて、読みやすさがよく感じられる。
 確かに、題と作者だけはよく知っているが、中身を見たことがない、という本は多い。歴史の中の書物は特にそうである。そういうものは、表向きのイメージだけで、中身を決めてかかっているようなところがある。この本だと、黄金の国ジパングの他、何を知っているというのだろう。もちろんそこにも関心があって開くわけだが、それについての叙述は、ほんの僅かである。300頁以上ある本書の大部分は、アジア諸国の詳細なレポートである。
 1271年に父たちと共にアジアへの旅行に同行する。四半世紀にわたる大旅行隣ったわけだが、マルコ・ポーロが語ったことを、知人が記述したという形になっている。そのため、本書の中では「私」ではなく「マルコ・ポーロ」が主語になるような書き方がなされている。
 それはそれは各地の小さな国々の政治や文化を、なかなか面白く語っている。男女関係の習俗も、ゴシップ的に書かれているし、使者の肉を皆で食べるなど、本当かしらと思われるようなことも載せられている。こうしたことから、これはホラ話ではないか、とも言われているらしい。面白おかしく経験談を語ると、それは喜ばれることだろう。そのことで富を得たとも言われる。事の真相は分からないが、この本では、訳者がいくらか解説をその都度入れている。いまでいうどこそこの地方のことだ、などという注釈が本文の中に入れてあるので、読み進みながら理解が深まるといえよう。
 訳語の問題であるかもしれないが、随所に「偶像崇拝教徒」という呼び方がなされている。このアジアにも、時折「キリスト教徒」はいる。景教と呼ばれる形で、西欧での異端が伝わっていたのは事実であるし、そのような人々との出会いもあるのだが、そうではない現地の人々は、ひたすらに「偶像崇拝教徒」なのである。まあ当時のことだから、これはこれで当然のことだろう。現代のキリスト教徒の深層心理にも、これはあるかもしれないし、露骨にそれを出す人々もいるのだ。
 ところで、当時はフビライ・ハンの時代であった。その晩年の、権力のすさまじさがここには描かれている。具体的には本書をお読み戴きたいが、この世の栄華を尽くすかのような、権力者の華やかさというか、横暴というか、ありったけの力を示す叙述が多々ある。周辺諸国も、そのフビライの支配下にあって、称えているので、確かに帝国の権威というものは、当時広く及んでいたのであろう。モンゴル帝国とは、ただの大帝国ではなくて、こうした周辺諸国がフビライを崇める、比較的緩やかな連合の形であったのかもしれない。
 そして日本についてであるが、本書は発音的に「チパング」と表している。それはそれでよいのだが、実はマルコ・ポーロは日本を直接訪れてはいない。中国にはいたので、そのときに日本の噂を聞いた、というのが実情である。そのため、例の黄金に満ちた国というのも、尾ひれのついた噂に過ぎないのは、私たち日本人が一番よく知っているものであるし、どこからそのような話になったのか、についてもいろいろな説があるらしい。中尊寺の金色堂辺りの話が思い浮かぶが、中国に何がどのように伝わっていたのか、また話したのはどういう人物なのかということについては、研究があるのかもしれないので、素人は黙っておくことにする。
 確かに、面白い。エキゾチックな魅力に富んでおり、これは間違いなくもてはやされる話だろう。他には誰も行かない地のレポートであるから、随一の体験談として、西欧人が興味津々になることはよく分かる。そしてこの話が、本当か嘘かという検証を経ることなしに、西欧社会を大きく動かしたのも納得できる。アジアへ向かう関心が、やがて技術を伴うと、大航海時代を招くことになるのだろうし、その後の植民地政策から、果ては世界大戦への道をも敷いていくことになってゆく。
 ペンは剣よりも強しと言うが、まさにペンが世界を変えたのである。言葉の力の大きさを思い知る次第である。




Takapan
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