本

『東大のディープな日本史』

ホンとの本

『東大のディープな日本史』
相澤理
中経出版
\1050
2012.5.

 タイトルに「歴史が面白くなる」と付けられている。それは嘘ではないと思う。
 東大の入試問題を使うという発想は、決して奇抜なものではなく、著者が予備校講師として日常接しているところから、つまりふだんから喋っている内容から、テーマに沿って整理しただけ、というのが実情ではないかと思う。ことさらに研究を重ねて、というのではなく、いわば職業上得た解放のひとつのまとめのようなことである。
 たしかに面白くなるということで、売れている理由も分かるような気がする。私は日本史には素人だが、へぇと思わされることが多々あり、また、歴史を見るというのはこういうものなのかと勉強になった。小中学生に向けて物語りとして語られる歴史とは当然違い、細かな史料を駆使しつつも、しかしマニアックに隅をほじるようなわけでなく、政治や支配の本質を見抜かなければならない必要を感じさせる、という入試問題である。これをぶつけられる高校生というのは、たまったものではない、と改めて東大というところの凄さを感じた。そこから、日本の政治の中枢を担うメンバーが現れることになるという前提である。日本を理解し、日本をリードして世界の中で生きていかなければならないその立場になる人物の若いときに、知っておいてもらいたい日本の歴史のエッセンスを、この日本史の入試問題にぶつけるのである。納得もいくものである。
 俗的なクイズ番組で「歴史の実話」のように紹介されるというようなレベルではない。日本の支配層の決断の背景にあるものを、十分学んで考えておかなければ書けないような記述問題の数々である。それを具体的に紹介することはできないが、少しばかり歴史に詳しい人ならばもしかすると常識的なことが鳴らんでいるばかりかもしれないけれども、なるほどそういうカラクリなのか、と思わされることもきっと多いだろう。時折右寄りの週刊誌がさも当然のように論じ立てる日本の常識がそうではないのだということも、簡単に分かることがあるだろう。現代政治の裏方を覗くような楽しみを感じる。
 しかし、入試問題の模範解答が用意されているというのは、予備校講師としてのいわば実力をさらけ出していることにもなるわけで、一面勇気の要ることであるともいえる。ただ、それを導くために、どういう点を頭に置くのか、ということやその背景が、いわば歴史の背景の解説という形でずいぶん詳しく語られていくのがこの本の真骨頂であるのだが、そこにはもちろん著者の歴史観が貫かれているというのは当然である。時に、もうこれしかないというふうに強引に、自分の理解を貫く面もあり、またそれが魅力であるとも言える。
 ただ、だんだんとそういう著者の歴史観も、読み進むうちに分かってきた上で、最後の「おわりに」というところで、私は愕然とした記述に出くわした。ホンネとタテマエを使い分ける日本の歴史を理解させようとする東大の日本史である、という見解が適切かどうかについては私は判断力をもたないが、そこに著者が独自に「踏み絵」ということを持ち出してくるのである。そして踏み絵、すなわち絵踏制度について、踏むという行為によって、内面的な心が揺らぐことはないはずだ、という断言をするのです。この人は自分はクリスチャンでもなければ、「特定の」宗教を信仰しているのではないが、信仰があっても信仰のゆえに絵など踏む、と自分のネット上の発言でも呈しています。
 歴史の事実を分析するのならばそれもよし、一定の歴史観をもつのもそれでよし。しかし、自身信仰をもたないという者が、「これが信仰だ」とまで言い、絵を踏めないなどというのはおかしい、という言い方をすることができる――そこに、この人がもつ傲慢さがこぼれ落ちてしまっているのを見てしまったのである。自分は死の病にかかったことはないが、かかったらこうなることははっきりしているから、それを○○と考える人はおかしい、などと言うことができないのは、おそらく誰もが賛同できるテーゼであろう。ならば、信仰をもたないというこの人が、キリスト教はこのようなものだ、ときっぱりと断言して、だからイエスも偶像を踏むことを赦すに決まっている、と豪語しているのはどうか。まして、当時伝わったキリスト教信仰や、当時の日本人がそれをどう受け容れたかということは抜きにして、あたかも今の時代に見るキリスト教の姿を見てキリスト教が分かっているというふうに思いこんでいるとすれば、なおのことだ。それこそ、歴史的な見方ではないのだ。日本語聖書すら存在しない中で、いくら領主の影響が一部にあったからといって、現代の日本人クリスチャン人口からすれば恐ろしく多い人々が、パライソに人生を見出したその「懸命な」信仰を、自分は安全な所にいながらして、命を懸けるようなつもりもなく、いとも簡単に、「自分なら踏むし、踏むことこそ信仰だ」などと切り捨てるというのが、この著者の醜いホンネであったのだ。
 政治の本質を知るということは、こうした人の心を知らなくていいということでもあるのだろう。この踏み絵問題に続いて、君が代なんてタテマエで歌い、心の中で敬わないでいたらいいのに、君が代に反対することはナンセンスだ、というようなことに触れている。これも同様だ。人の良心の苦しみというものについて、全く理解がない。これが、政治ということなのだろう。日本が幾度かそのようにして国を治めてきたのは事実なのだが、著者もまた、知らず識らずのうちに、同じように国を支配する論理の中に埋没しているようにうかがえる。日本史を知り尽くすということは、そういうことであるのかもしれないと思うと、この国における良心や信仰の戦いは、やはり簡単なことではないということがよく分かったような気がした。




Takapan
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