本

『正面を向いた鳥の絵が描けますか?』

ホンとの本

『正面を向いた鳥の絵が描けますか?』
山口真美
講談社+α新書
\840
2007.7

 最近の新書は、タイトルは目を惹くが、何が書いてある本なのか、分からないことが多い。これも、鶏ふうな鳥が正面向いた絵が描いてあるだけの表紙で、タイトルも意味深である。
 似顔絵の描き方が、まさか新書であるとは思えないが……などと本を開くと、著者のプロフィールに、発達学とか乳児の知覚世界とか書いてある。「描けますか」と問いかけられた先に、発達や知覚の問題があると言われても、ピンとこない気はする。
 だが、これで手に取った私がいるということは、タイトルは成功したということなのだろう。
 前置きが長くなった。
 そもそも絵を鑑賞するというのはどういうことか、問い直されるあたりから、本が始まる。それから、顔にこだわる人類の運命が明らかにされ、子どもが好きな丸顔のキャラクターのことに言及される。それは知っていた。が、何故かと訊かれても、それは素人には答えられない。
 そもそも見えるというのは、どういうことなのだろうか。著者は、こういうところから理論を築き直す。というより、私たちが当たり前として何の問いもなく前提の中に放り投げている、「見える」ということを問う、いわば哲学的な仕事を、科学的な手法で行ってくれているのである。その点、私は著者に感謝したい。
 なぜ絵の具を混ぜていくと黒くなっていくのか、その説明も実に鮮やかである。光を混ぜていくとどうして白くなっていくのか、それも同時に明らかになる。
 それから、実験というよりも実例から探究されるのだが、生まれつき視力のなかった人が、あるとき見えるようになったとしたら、どのような認識をするのか、が説明される。当然、私たちが見えるように感じることはできないものと思われるが、それがどうなのか。そもそも、視覚というのはどのように統合されているのか。数々の実験と調査から、目の前に示されていく。
 随所に、専門である、赤ちゃんの見え方ということに触れられる。それが、人間が生まれ落ちてから「見る」という能力を得るまでに至る過程であるのだから、最も大切な論拠となるのかもしれない。
 人間は、生きるために必要な見え方が備えられている。それには敏感だが、必要でないことについては、いたって鈍感である。逆さまにものを見るということには慣れていないし、その必要もまずないわけで、サッチャー錯視には、私もすっかり騙されてしまった。
 また、人間は、見えないものを見るように感じている。主観的輪郭の図は、やはりどう見てもそれが見えてしまう。このことから私は、神を見るということ、あるいは信じるということが、人間として当然のことであるように思えてきた。それは、物理的に存在するのでなく、人間の心眼で捉えるものである。それでいて、存在しないものではない。脳が世界をつくるというのは、ある意味で正しいことだろう。「見えないものを見る」ことが、ヒトの脳の究極の能力だ、と著者もはっきり述べている。
 なんだか、近代哲学の認識論を展開しているような気分になってきた。あれだけの時代を通しての議論には、たしかに意味があったのだ。それぞれの認識論に、たしかに言い分があったのだ。
 そして私たちは、「よい形」を見ようとするものだ、というゲシュタルト心理学の成果も紹介される。私たちは、どこまでも希望をもつことができる種なのであろうか。
 理屈を垂れてきたが、この本の最後にあるように、あまり理屈でこの本を取り上げるのは、著者の望むところではないようだ。「面白い!」とだけ叫んでおけば、それでよいのかもしれない。




Takapan
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