本

『詩編をよむために』

ホンとの本

『詩編をよむために』
日本聖書協会
\1100+
2021.11.

 タイトルには実は「聖書協会共同訳」という文字が目立つように掲げられている。新しい聖書は、2018年に発行されたが、必ずしも販売が芳しくない。そのための販売促進の道のひとつでもあるだろうが、これまで、新しい翻訳はこんなところに工夫をしている、といったタイプのものが非常に多かったのに対して、今回はソフトに立ち回ったような印象を与える。
 いささか意地悪いところから入ったが、私は素直に、詩編というものについて教えてもらえることを期待して購入した。五人の筆者が、それぞれの角度からそれぞれの関心や知識をうまく生かして、詩編について講義してくれたところを集めたという形の本である。だが、なかなか読み応えがあった。ただ、1冊の本としてのまとまりやテーマのようなものが特にあったようには思えず、五つの紹介的な案内があったというふうに見える。
 あまりにそれを紹介し尽くすような真似はできないが、「詩編の基礎知識」「詩編に親しむ」「川のある風景」「天を仰いで神に歌う」「詩編を日本語で歌う」という題の五つの文章が集まっている。やはりこの「基礎知識」は、礼拝に加わるどなたも知っておきたいことが、手際よく述べられている。しばらく「詩篇」と表記されていたのが、ここのところ「詩編」となったのは何故か、このあたりから始まり、やがて「並行法・交差配列・囲い込み構造」といった、独特のレトリックを教えてくれる。詩編に限るものではないが、こうしたレトリックを知っておくと、聖書全般について、きっと読みやすくしてくれるはずだ。文章の構造が形式的にある程度型に収まりうるということで、聖書の文章の理解の仕方も、それがどういうわけでそう書かれているのか、そしてどこに主眼があるのか、そういった味わい方を教えてもらえるかもしれないと思う。
 また、今回の聖書翻訳の工夫したところ、つまりこうした考えで訳したのであり、またこうした願いをこめているというような話も載っている。具体的に詩編をそこに引いての説明であるから、純粋に、よい詩編をここで味わうようであってもよいのではないかと思う。
 川の話は、敢えてその種を明かさないでおく。
 詩編の中には、嘆きや悲しみを読み込んだものも少なくない。ただ、教会が明らかに避けているのは、敵への報復を神に祈り、呪いさえする詩編である。事実、交読文にはそのような詩が選ばれず、選ばれたと思ったとしても、その場面だけが見事に抜いてあるのだという。私もその点、何故避けるのか不思議に思っていた。それが本書の中のひとつが、ずばずばと指摘していたので、気持ちよかった。これではまるでサビ抜きの寿司である。サビを抜くものがあってもよいが、すべてのさびを抜くのはどうかしている。聖書はすべて神の言葉と日頃主張している教会が、恰もその呪いや復讐の言葉が聖書ではないかのように恣意的に扱っているというのは、解せないと言うことである。そうした詩が何故必要なのか、その辺りは本書がたっぷりと論じている。そしてその見方は優れていると思う。たとえば私たちには、グリーフ・ワークが必要である。このグリーフ・ワークについて、一言でばっさり切り捨てた人の声を、私は忘れることができないのだが、そのときその教会には長居できないことを確信した。復讐の詩も、聖書である。それは、悲しみを悲しみとして適切に受け止めることにもつながるという議論は、大いに読み味わうべきものだと思う。
 最後の音楽的な話は、グレゴリオ聖歌といった世界から、カトリックの典礼聖歌についての歴史やその解説が、短い中にふんだんになされて、興味深かった。知らないことばかりだったからだ。高田三郎さんは有名だが、その仕事の意義を改めて知る思いがした。かなり音楽的に専門の内容も含まれるため、ここはそれを直接聴きながら読みたいものだとも思った。
 新しい聖書協会共同訳は、はっきりと「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語」を目標として編集されている。詩編は、礼拝の交読文にも用いられることが多いように、この朗読という現場に非常に近いところに位置している。本書の狙いは確実にそこのところにあったはずである。聖書の詩編についての知識を増やそうとする思いで読んでももちろん構わないと思うが、これをきっかけとして、これから詩編を読むときの気持ちが、それまで体験しなかったような、詩編の世界内部に踏み込めるようになったらよいと願う。雑誌のような本だが、どこかからそんな期待を与えてもらえるのではないかと喜んでいる。




Takapan
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