本

『ともにある神――マタイ福音書』

ホンとの本

『ともにある神――マタイ福音書』
INTERPRETATION89
聖公会出版
\2000+
2015.6.

 聖公会出版が前社から受け継いで日本語訳を出版してたが、それも行き詰まり、このころからは日本語訳が出なくなった。最新の神学研究の成果が特集を帯びつつ知らされるよい機会であっただけに残念である。しかし読者が限られているせいもあり、価格が高く、確かに手を出しにくいのも事実。私は格安のルートでようやく手に入れて読んだわけで、私とて何ら貢献しているわけではない。申し訳なく思う。
 マタイによる福音書をテーマに、自由な立場で縦横に語られており、内容は面白かった。福音書についての理解は前世紀からずいぶんと進展し、一応の落ち着きを見せているとはいうものの、まだまだ謎は多く、多彩な意見が交わされて然るべきではあるだろう。ご存じのとおり、「神」という語を極力出さないマタイではあるが、皆無なのではない。マタイが神をどのように捉えているかについても、議論の余地があるのだ。キリスト教として紹介されるたとえ話にしても、マタイからというケースが多々あるし、なにぶん、福音書の冒頭をあの系図が飾るというおどろおどろしい姿に古代の教会が定めたのも、何かしらその理由や思惑があってのことである。マタイには特別な魅力があるということにもなるだろう。
 マタイにおける神とキリスト、各論文はそこに的を絞っている。新約聖書を理解するために必要な視点だろうと思う。ひとりは、女性問題を取り上げた。従来マタイは女性を蔑ろにしているということで有名だったが、必ずしもそうではない、ということで、マタイの視点から女性を特別に扱っている点に光を当て、新鮮な舞台を私たちに提供してくれるものだった。
 このシリーズには、本論文の次に「テクストと説教の間」というコーナーがあり、特定の聖書箇所に的を絞って釈義を施す比較的短い文章がいくつか掲載されている。今回それもマタイなのであるが、その最初にある2:13-17のものは、この本では珍しく、私は腹を抱えて笑った。洗礼を「ドライブスルー」だとか「聖なる予防接種」だとかいきなり呼ぶわけで、それも的を射ていると思ったので、大笑いだったのだ。ヨルダン川におけるイエスの洗礼とは何であったのか。マルコとの決定的な違い、つまりマタイが付加した言葉からそれを読み取ろうとし、また、出会った同性愛者の女性の証しに裏切られ驚いた話など、興味は尽きない。これはすでに説教であろう。実に愉快で、そしてじんとこさせる。
 こうしたテクストの取り扱いの場合、その聖書箇所を下部に小さな文字だが置いて、文章を実に読みやすくしてくれる配慮もあり、つくづくこのシリーズが日本語で出てこないことを残念に思う。安くすることにより多くの神学者や牧師、信徒の手に触れるようになったらいいと願うばかりである。




Takapan
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