本

『時を刻んだ説教』

ホンとの本

『時を刻んだ説教』
ミヒャエル・ハイメル,クリスティアン・メラー
徳善義和訳
日本キリスト教団出版局
\6000+
2011.8.

 高価な本であるだけに、出版されたとき、手が出なかった。しかしチャンスがあれば、と購入候補に挙げておいたら、ようやく好機が来た。ずいぶんと安くなったので、これなら、と買うことにした。実にきれいな本であった。しかし、それに黄色いマーカーを私が施すというのは、ある意味ですまないという気もする。そして、これをまた転売することが難しくなるのも事実である。
 そんなことはいつものことだが、本書は、二人の神学者が選んだ、歴史上で注目すべき説教である。古代から、やはり感銘を受ける説教は、人々が遺して次の世代に伝えようとしてきた。それが功を奏して、こうして私たちにも千年以上の時を経て読めるようになった。実にありがたいことである。
 もちろん、それは書かれたものであって、説教たるものは、声色や口調、声量も含めて、聴くという感覚の中で、一定の時の中でなされるものである。厳密に言えば、最初に語られた、その時を以てしかその説教の命はない。だが、恵みは分かち合える。記録されたことは、広く知られて、多くの人を励まし、立ち上がらせることができる。書かれたことにより、「書かれたもの」すなわち「聖書」と訳す語のものになったと見ることもできよう。説教は、まさに神の言葉となるのである。
 さて、本書の副題は「クリュソストモスからドロテー・ゼレまで」とあり、歴史の振れ幅は大きい。そして本書の形式は一定である。簡単に「状況」が告げられると、「説教」が掲載される。それから「この説教の「復習」」として、内容を改めて辿る説明が施される。これはなくてもよいと思う人がいるかもしれないが、語られた説教がいまの私たちの環境に届くために注釈めいたものが、改めて筋道を辿ることで教えられるので、実のところたいへん分かりやすい。つまりは、原文を、今ふうの説教であるかのように、そのポイントと意義を私たちに知らせてくれるのである。それから「説教者」の解説がある。いったい人間としてはどのような人物であったのか、これは説教の背後にある人格的な部分として、これまた大変有効な理解の道であると思う。どういう生涯や神学的体験をしてきたのか、またその時代はどういう状況であったのかを、できるかぎり簡潔に語ってくれる。これだけ読むことで、まるで短編の伝記を読むかのようである。学習的にも優れているが、もちろん、説教を理解するのにもたいへん有用である。
 そして最後には「説教、時を刻む」というタイトルの下で、この説教が、キリスト教説教の歴史の中でどのように位置づけられるのか、またどうして本書に選ばれたのか、という点がまとめのようにして語られる。説教そのもの、また人物像というように綴られたきたその人物についてのコーナーがまとめられると共に、キリスト教の歴史の中でどのような意義をもっていたのかを知る機会となる。
 この、「時を刻む」という考え方が、本書の目指すところである。「時」とは、ギリシア語でいうならば「カイロス」であろう。流れ去る時や時代のことではなく、歴史の中の特異な一点としての光を放つ特別な「その時」である。かけがえのない「その時」、この説教が語られた。それは、その時でなくてはならなかった。その時に、そのようなものとして語られたからこそ、人類は歴史を刻んできたのだ。キリスト教の歴史というものが成り立っていたのだ。それくらい、歴史を刻む一つひとつの一里塚のように、それぞれの説教が輝いている、と編集者たちは確信するのである。
 昔の説教だから、今ふうには素直に読めないかもしれない。しかし、聖書は基本的に殆ど同じなのである。同じ霊に導かれているというのが、キリスト教信仰である。だから、驚くほどに、それぞれの説教を、私たちも聴くことができる。違和感はないに等しい。  そんな中で、私は、最後のドロテー・ゼレの説教を読んだとき、心惹かれるものを感じた。牧師職ではない、女性説教者である。しかも神秘主義的傾向をもっているともいう。しかし、説教に対する心は、私は大いに賛同することができた。
 そこにはたとえばこのようなことが説明されていたのであった。「彼女(ドロテー・ゼレ)にとって問題なのは、概念的に正確な学問言語ではなくて、実存的な祈りの言語である……。詩の言語で祈りを構成し、聖書本文を今日の生と関わらせる。」




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります