本

『東北発の震災論』

ホンとの本

『東北発の震災論』
山下祐介
ちくま新書995
\924
2013.1.

 社会学。著者の専攻は、都市社会学、地域社会学、環境社会学だとプロフィールに並べられている。この肩書きめいた紹介は、この本を読み終わったときに、納得する。そうだ、そうなんだ、と。それが何であるかを、ここで説得しようとしても、それは空しいだろうが、ヒントめいたことは触れておいてもよいだろう。
 やや厚めの新書版に、熱い議論が投げかけられる。個人の情に共感したり、慰めたりといういう手法は取らない。これだけのスペースしかないのだから、著者の告げたい社会の問題点と、それの解決や超克といった方向に進むために必要な事柄を書き連ねていく。
 話題は震災である。そして、これは東北発である。東北の視点から、見る。いわば、地方から中央を見るのであるが、その地方にしても、地方などという呼び名で一括りできるような性質のものではない。サブタイトルには「周辺から広域システムを考える」とあり、これは本書の重要な思考枠となっている。といっても、私がそれを正しく解読できたかどうかは怪しい。ただ、著者は、この周辺と呼ばれるところに培われていく、古くて新しい社会に期待をする途しか遺されていないのではないか、というような方向に進む。
 いや、端折りすぎた。
 著者は、東日本大震災を振り返る。心にこぼれまくる涙は伏せておく。日本社会が、この災害に、どう機能したか、について、その専門家としての眼差しが分析していく。ボランティアの姿も、また被災者の姿も、この日本社会のシステムの中でどう働くか、あるいはまた働かないか、丁寧に指摘していく。かつてその時の、政府の対応や原発管理の在り方なども、当然扱われる。しかし、誰のせいかなどと犯人探しをするべき雰囲気ではない。そんなことをやることそのものが、社会の問題点として挙げられて然るべきなのだろう。いったい、日本社会はまともに動いているのか。この困難の中でストップしたその機能には、何か決定的な理由、致命的な欠陥が潜んでいるのではないのか。
 私がこの著者の探究に惹かれるのは、人間たるものを見つめるその眼差しと、それを把握するために、哲学的な思考や背景を問題視しているところである。しかも、これは最後に決定的になっていくのだが、宗教的背景が重大な要素となっていることを根柢に置いて憚らない故に、著者の思考の真摯さを信じるのである。
 ともすれば、経済がどうだとか、政治家がどうだとか、企業がどうとかいう、若干自分の知りうる細かな点を指摘して、誰それが悪いというふうに、読者の人気を集めようとする、お粗末な批評家が、雨後の筍の如く、震災の後に繁殖した。それは、実のところ震災前にもすでにこの社会に宿命づけられた、うるさいハエたちであったのかもしれない。常に自分を正義の側において、だから言わんこっちゃない、とミスを重ねた集団を悪者に仕立てて、正しい批評をなしたと人々に思わせる輩である。それでいて、実のところ何も述べていないに等しい。そもそも人には欠陥があることは自明である。それをあげつらい、誰かを悪者にすることは、実は何もしていないに等しいのではないだろうか。
 著者は違う。この、震災からの復興とは何かを問う中で、「主体性」とは何かを取り上げて考える。果たして、東北という地域の歴史に、それはあったのか。東北の歴史を古代から掘り起こし、明治以降にどのように扱われてきたのか、全体的印象ではなく、その都度の変化を踏まえて辿る。そしてそこに、東北に限らず、「近代化」を図った日本の、中途半端なやり方が表に出される。キリスト教を排除してシステムを輸入したのだったが、そもそもこのシステムは、キリスト教なしでは成立せず、キリスト教という背景がなく個人という思想を省いた形の日本社会の中では、賄いきれない運命を宿していた、というように捉えているように私には見えた。
 事は、原子力発電所事故の問題に入ると、またいっそうクリアに浮かび上がってくる。骨抜きで取り入れたシステムは、崩壊したのだ。人々は分断され、被災地の社会はばらばらになってしまっている。賠償と除染だけからは、解決の糸口さえ掴めるはずがないのだ。どうやって、人々のつながりを回復するのか。
 流行りの「絆」の言葉は、実のところ何の機能もなしていないという。離れた地域からは復興だとか支援だとか軽く言えるが、現地のありさまは遠い国の出来事のようだ。だから、そこに自ら「主体」して関わる関わり方が、すなわち「問い」がスタートしなければならない。このシステムは、いったい何なのか。
 著者は、こうして問題点を、根柢から突き崩すように指摘しながら、最後の一割弱の部分で、大きな挑戦をする。キリスト教を欠いた形でのこの百数十年の日本の近代化の営みの中で、形だけ取り入れた近代国家の構造体系は、崩壊したのだ。崩壊せざるをえなかったのだ。太古に「くに」という集合体があったと、古代史の研究家は告げるが、そのような「くに」という共同体の構成を見るべきだ。とことん分断して、それでも、どこか切れない何かが残される。そこに、次の未来を切りひらく端緒を見出したいのだ。それこそが、真実の意味での「絆」である。切ろうとしても切れないものだからだ。
 このように、哲学や宗教を踏まえてのシステム考察には、説得力がある。こうした哲学の知識なしの、表面上の経済理論や、自利のために弁論を活用する政治屋の言明は、どんなに分かりやすかろうと、人々の人気を得る部分があったとしても、しょせんうわべだけのニス塗りのようなものであるに違いない。中の骨は折れており、支えることができない。著者の言いたいことはもっと凄いことなのかもしれないが、私の言葉で私の観点から捉えたら、こういうふうな深みが、この本の中に隠れている。こうした考察・思考が、私たちの社会を真の意味で未来に導くであろう。
 ただ、キリスト教とは違う共同体に託すという著者の提案は、日本の現実的な情況に間違いなく合致しているし、それはそれでよいのであるが、私は一クリスチャンとして、どうせならそのキリスト教そのものを受容して、西欧近代化の根柢のところから正統にそれを受け継いでいく途があってもよいのではないか、と思っている。夢のような話なのだが、ぜひキリスト教をほんとうに日本社会が学び、取り入れていく路線を、と期待して止まない。
 ところが、読み進めていて実はどきりとしたのだが、日本の教会というところも、実際こうした日本社会と同じ動きをする機構となっていやしないか、と迫ってきて仕方がなかった。高齢者の意見をその尊重という大義名分のために受け容れていくと、未来のない、将来破綻する社会を作ることになっていく、というのである。教会も高齢化している。その高齢者を大切にするという言い分のもとに、高齢者の機嫌を伺うことで活動が終わるというような教会の在り方は、未来を滅びとするものにほかならない、という点に、気づかされるのである。
 日本の教会も、どこか日本社会らしい面をもつ。いや、日本社会の色に染まった土台をもつ。そのすべてが悪いというつもりは毛頭無いが、聖書に忠実だなどと言いながら、実のところ日本社会の暗黙のルールを打ち破れないだけの自分に、気づいてもいない、という姿を、そこに見るような気がしてならないのである。
 哲学や宗教を必要な土台に構える考察は、深く広い思考を生み出す。この本の価値は、そこだけ見ても、納得させられるものであろう。ハウツーものの震災本が巷に溢れているだけに、この新書の良さをもっと広めるとよいと思わざるをえないのである。




Takapan
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