本

『飛ぶ教室』

ホンとの本

『飛ぶ教室』
エーリヒ・ケストナー
池内紀訳
新潮文庫
\460+
2014.12.

 幾多の訳が出た。これは2014年時点で最新の訳である。従来の訳語を意図的に変えたところがあり、以前のものに親しんだ人には、また新たな感覚で触れることも可能であろうと思われる。
 物語である以上、ここにそのストーリーを尽くすことはできない。クリスマスを前に読むに相応しいかと思い、購入した。どうせなら一番新しい訳にしてやろう、などと思いつつ。
 ドイツ語を少し学んでいたせいもあり、ギムナジウムをはじめ、その学校の仕組みや風土などについて、いくらか知識があったのはよかった。すんなり物語に入っていけた。前書きから始まり、クリスマスの物語をどうしても書かなければならなくなった作家の状態がユーモアたっぷりに紹介される。そしてその書いた物語に入り、最後にまた作家の日常に世界が戻り、いくらかの種明かしとともに幕が閉じられる。タイトルの「飛ぶ教室」は、この物語の中で演じられる創作劇のタイトルだ。その劇を中心に展開するのかと思いきや、必ずしもそうではなく、少年たちの寄宿舎での生活と闘い、また先生との心の交流などが、様々な場面が切り取られながら展開していく。
 思わず涙してしもう場面もあった。ここで記すのはよそう。
 ナチスの時代、1933年に発表されたという小説。思惑を含むような詩などの文学は抑えられたが、児童文学ならば、と許されたらしい。しかし、ナチスについて思いを抱きつつ作られたことは確かで、児童文学に昇華させながら、子どもたちに何か強いメッセージがこめられているような気もする。それが露骨に伝わってはまずいであろう。読んだ人の心に魔法をかけて、何かしら強く生きること、信じることを生じさせることができるとすると、これほど芸術としても価値あるものはないかもしれない。言葉でうまく説明できないけれとも、何か勇気が出る、心が澄んでいく、素直になれる、そしてまた、ふだんは気にかけないような小さな存在に目が向き、助けようという思いが芽生える、それができるようになる、そんな魔法である。
 ケストナーは、間違いなく、そんな魔法をかける術を知っている。ユーモアを交えつつ、しかし悪意に満ちた存在を的に見立てて攻撃するというのでもなく、現実の問題や、思うとおりにならない世界の出来事に対して、何かしら助ける者がいること、助け合い思い合うことに意味があること、そんなことを確信させてくれるのである。
 ナチスの時代にも、それは伝わったであろうが、その後の時代にも受け継がれ、映画化もされ、現にこのように日本語訳が何度目か知れないくらい出ているというからには、現代もまた、私たちにとり、この本が必要であるということの証拠であると言ってよいだろう。
 そうなると、気になるのが「飛ぶ教室」である。劇中劇として、少しマイナーな位置に退いているこの劇が、私たちにもたらすものは何であろう。考えてみたくなった。
 そして、小学五年の息子に、クリスマスを前にしてぜひ読んでみろと渡した、父親としての私の勧めもまた、何かをもたらすことになるのだろうか、とも思ってみたくなる。




Takapan
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