本

『知的複眼思考法』

ホンとの本

『知的複眼思考法』
苅谷剛彦
講談社+α文庫
\880+
2002.5.

 読書に関する本の参考文献にあったもののうち、面白そうだと思ったので探していたら、偶然古書店で見つけた。ラッキーだった。
 本書は文庫であるが、もともと1996年に刊行されたものであるだけに、1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件を目の当たりにしている。実際このオウム真理教の事件は、本書の成立に影響を与えているということを、著者は「あとがき」で記している。複数の視点からものごとを捉えることの必要性を改めて感じさせられたというのである。
 社会学を研究の場とする著者であるが、大学院で教育分野を担当しているだけに、この「ものの考え方」という点において課題があり、学生たちと互いに良い道を探している中で、本書のようなモチーフと、そこから実際に歩んでいく過程が明確になってきたようである。
 本の題が、やはりすべてを表しているのであって、「複眼的思考」を促すものだと言ってよいだろう。ベーコンはイドラという形で、人間には様々な偏見の原因があることを示し、注意を促したことになるが、私の見解では、その指摘はいまなお何ら克服されてはいないと思っている。さらに具合の悪いことに、これだけ情報が過去とは比較にならないくらいに増大した時代になると、むしろ人は自分で考えようとはせず、情報に囚われ、「思いこみ」が激しくなる可能性が高まる。
 著者は、「自分の頭で考える」ことの大切さを願っている。まず注意を促すのは、二分的思考法だ。自分を必ず正義の側に置いて、他人を非難するのである。これが一定の量になると世論などとなり、世の常識と化していく。だが、その「常識」を当然視するものの見方・考え方は、ものごとの一面を見ているだけにすぎない。そしてそのことの自覚がない。これこそが真実だと思い込んでそこから離れることができない。そして他人もまたそれに同調すると、ますます安心して、これこそが真実だと結束し、それに異を唱える者を排斥する。私が日ごろまざまざと見ている風景が、本書で見事に描き出されている。
 大学生も、入学までは正しい答えを生み出すための訓練を続けてきたのだが、そのためには自由な思考ではなく、型にはまったものを会得することだけを実践してきた。その大学生たちのアタマを柔らかくするために、この教授はあれこれやてきたのである。
 その結果をできるだけ分かりやすく形にしたのが、この「知的複眼思考」であるのだという。それは、大学という場の問題に留まらない。社会でよく言われる決まり文句というものが、実は自由な思考を妨げているのであり、またそれを持ち出すことによって、議論をすべて終わらせ、反論させないようにしてしまうというのだ。これはもう私がいつも社会に対して吠えていることそのものである。「民主主義」「基本的人権」という言葉を持ち出したらもう議論はそれで終わり。「自虐」という言葉を相手に叩きつけて嘲笑う新聞社もある。それでいて、「自虐」の定義というものは、実のところあまり考えていない。自分が相手を非難するために想定している意味での「自虐」しか考えていないが、相手には相手の考えているその言葉の定義があるはずだ。また、誰も気づいていない定義があって、その事柄そのものを思索する必要が与えられるかもしれないのに、それを制止して勝利の言葉として掲げるやり方を平気でするのである。
 政治の世界では、これが常套手段となっている。国会中継などを見ていても、この言葉さえ言えば勝ちだというようなからくりが見えているのに、野党議員もなかなかそれを追及できないとき、もどかしくなる。政治家という世界において、その言葉がもう一定のものとして了解されてしまっているとき、ソフィスト的にいいくるめている使い方を、なかなか指摘できないのである。
 本書は、こうした点を解きほぐしていくために書かれているが、議論についての議論みたいなものだから、苦労したらしい。それで、できるだけ実例を多く取り入れ、また大学で実際にあった議論などを提供しながら、読者に分かりやすく説こうとしている点が評価されるべきであろう。同じことを繰り返し言うと、少しくどく思われることもあるが、それも誤解をできるだけなくそうとする努力だと考えるならば、それでよいと思われる。そのせっかくの努力を、私がここで一覧表にでもしてしまうのは控えようと思う。ぜひ本書を手にとって味わって戴きたいものである。
 本当にその論理でよいのか。何か目的があってそのような言い方をしてくるのではないのか。私はひねているので、常日頃そのような目で物事を見ている。自分が責められているときは、とりあえず自分の非を自覚はするが、相手がそのように言うのは何の目的があるのだろうか、という辺りまで考える。この人はこの立場でこのように追い込まれているから自分のこのことが邪魔で仕方がないのだな、というふうに考える。それだから相手を一瞬にして感情の敵のようにはせず、時折は憐れみもする。繰り返すが、それは自分が正しいのに、などと言うためのものではない。
 このように、私も哲学の徒のはしくれであるために、実のところすでに気づいていて、また実践しているようなことがこの本では分かりやすく説明されている、と言ってよいくらいに賛同しているのだが、最後のほうで、「?」と思ったところが少しあった。
 問題の渦中からではなく別のレベルに立って問題自体を「ずらす」ことの必要が説かれた。私は、それはその通りだ、と思ったのだが、これを「メタの視点」という、と紹介された。ここまではよかった。しかし「メタ」というのは、もともとは「後」という意味のギリシャ語の接頭語であると言い、「メタの視点に立つということはねその問題を後から見直すかのように、とらえ直してみるということです」と言い切っていた。
 アリストテレスの『形而上学』に端を発し、哲学の根底的な部分ともなったその「形而上学」はその「メタ」を使う「メタフィジカ」、つまり「メタ自然学」である。これはアリストテレスの自然学の「後」に置かれたからだという理解と、自然学を「超えた」思索だという理解と二つあることは有名である。あるいはまたその両方をかけているのか、といった考え方もあるが、概ね「超えた」理解が中心となっているだろう。つまり自然を見たり考えたりする次元を超えた、高いレベルから考えるというところに形而上学の意味を見るのである。今風に言えば「俯瞰する」と言ってもよい。だから「メタ思考」というのは、いまいる所からひとつ高い段階に上って見下ろすような形で捉えること、つまりたとえば自分が何か言おうとするときに、そのように言おうとする自分の行為はどういうものであろうかという点を考えるようなことをするのである。
 著者がここで言う「メタの視点」も、「後」ではなくて「超えた」でよいのではないだろうか。少なくとも「後から見直す」という説明は、的を外している。時間的に後から振り返るようなことではない。
 もうひとつ、セクハラのような深刻な事態が「水面下に隠されているような問題」であったことが問題として<発見>される、というような書き方がその直後にしてあったのだが、これは明らかに男性本位の視点であろう。アメリカ大陸を<発見>した、というのとパラレルに考えてもらってもよい。確かに著者もちゃんと説明はしているのだが、女性はそのような声を以前から挙げていたのに、男性が支配する社会の中で、そんな声を黙殺していたり、また問題にしようとした女性を嘲笑うなどまともな相手をしなかったのである。それは決して「水面下に隠されていた」のではない。男性が、水面下に沈めていた、というのなら分かるが、主体が不明なままに「水面下に隠されていた」というような書き方は、著者が男性である故に、当事者意識がないようにしか見えず、やはり男性視点を免れていないのだという、少し残念な気がした。もちろん、これはその後の時代状況があるからこそなのであって、1999年の男女共同参画社会基本法もまだ成立していない、1996年当時の著者を非難するつもりはない。だが、改訂ができるのであればこうしたところは修正しておかないと、結局著者自身が、男性としての単眼思考に囚われており、複眼思考ができていない好例のようなものを露呈してしまうことになりはしないだろうか。
 380頁を数える分厚い本だが、行間も緩やかであるし、読みやすさの点では、困ることはない。自分の頭が固いということは、そもそも自分では気がつかないのだからこそ頭が固いということなのだが、逆に言えば、頭が固いかどうか、つまりひとつの視点だけを真実だと思いこむタイプではないかどうかを知るためには、本書を辿っていくとよいのではないか。違和感なく読めるならば複眼思考をすでにしていたのだろう。読んでなるほどと思うならば、複眼思考が理解できるほどに、複眼思考の備えがあるということなのだろう。何を言っているか分からない、となると、これはやはり重症であるかもしれない。
 ただ、若い人はこうした試金石云々に関係なく、読んでよいだろうと思う。基本的に頭はまだ軟らかいのであるから。




Takapan
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