『知的経験のすすめ』
開高健
青春出版社
\1,300
2003.5
芥川賞受賞作家である。だが、空想的作品というよりは、ルポあるいは冒険的エッセイという、(語弊があるかもしれないが)男臭いタッチという印象がある。平成の声を聞くとともに没した開高健は、今では一つの文学集の名前としても残っている。彼が、かつて『私の大学』と題して「東京新聞」に掲載されてきたコラムが、今新刊として発表されている。いわば、「教育」についての筆者の経験的見解。
だが、教育云々を期待して読むと失望する。そこにあるのは、著者の体験。戦争と飢えとの中で、懸命に生き続けたときに見たもの、感じたものばかり。そして、わずかな時間と金とを費やして、やっと手に入った小説に浸ったこと、それも猟奇物のような「タメにならない」ような本……。
それでも、そこには不思議と読む者にエネルギーを与えてくれる何かがある。偉そうに、教育のためには何をすべきだ、とか、教育によろしくないのはこれこれだ、とか語る口調の言葉よりも、よほど、人生そのものに触れるような気がしてならない。何も勧めないし、何をも批判しない。ただそこにあるのは、自分が立ち上がっていったその事実と、生きていくという素朴な目的の中で自分が感じてきたことの叙述である。
それは最後のエッセイのタイトル『ムダこそ自分を豊饒にする』が告げている通りであるかもしれない。その中で著者は呟く。
「一見ムダに見えながら、じつは豊饒の源泉であるもの。何よりこれは心にとってムダを恐れるな、ムダをきらうなという教訓だろうか。何がムダで何がムダでないかを考えるよりは、ムダなものなど心にとっては何もないと考えておけということであろう。」
あるクリスチャン関係のフォーラムで、こんな意味の書き込みがあった。カトリックもプロテスタントも、それぞれ自分の中に一つ筋が通ったものをもっているので、大筋では正しいという理解をもっており、そのために、互いに譲り合わずに並立してきた歴史があるのではないか、と。
つまり、時に相手を批判することも多かったにせよ、否定し尽くすことばできなかったのであるから、これらのキリスト教の立場は、それぞれムダな部分をもつことなく、けっこう強かな生き方をしてきたのではないか、とも思えてくる。開高健の強かさ――その内部には極めてナイーヴで弱い部分をもっていたにしても――には、生をそのまま認めて歩もうとする、一つの人生の指針のようなものが感じられてならないのである。