『知識人とは何か』
エドワード・W・サイード
大橋洋一訳
平凡社ライブラリー
\840+
1998.3.
サイードという人については、ノーマークだった。ある本で取り上げられたので、読もうと思った。本書は非常に分かりやすい。タイトルの通り、「知識人」について最初から最後まで説くからである。そして、その言おうとしていること、立つスタンスについても、そんなに大きな混乱なく捉えることができるように見受けられる。共感をもつか反感をもつかは知らないが、読者も態度を決めやすいのではないかと思う。ただ、だからサイードの言っていることは単純だとか、薄いことだとか言うことはできない。人生に裏打ちされたその主張は重く、また意義が大きいのである。
知識人と人は簡単に言う。そしてそれぞれのイメージを以て知識人の理想を期待したり、知識人の言うことだからと信用する。だが、歴史で国民を動かすのは、知識人の声というものであったかもしれないと私たちは反省する。判断することを、知識のある知識人に任せてしまうのである。だから政府は、知識人というふうに見られる人々に、政府の考えが良いのだと言わせればよい。こうした単純な作戦ではあるが、日本でも首相がやろうとしたし現にやっている。
サイードは、1935年に生まれ、2003年に没している。第二次世界大戦の空気を、子どもながらに知っており、戦後の復興の様子も見ている。そして何よりもその思想の原点は、彼がエルサレムに生まれたアラブ・パレスチナ人だということである。その後アメリカ市民となって活動しているが、そこで発言を得て、文学を教授するとともに、こうした社会的な事柄を見据えた考えを訴えている。
本書は、1993年の著作である。「表象」と訳すしかないような語を用いて自分の考えをぶつけるが、日本語では非常に訳しにくく、理解しづらい面がある。訳者もそこは注釈を入れざるをえないのであるが、実は原題がこれなのである。「知識人の表象」だが、それは、知識人とは何かということを、知識人の側がどうあるべきなのか、を問うものとして提示されているように見受けられる。イギリスBBC放送の全六回の講演である。だから、一度聞いて呑み込めるように、話がスムーズに流れていくのだ、とも言えよう。
知識人が多すぎる。そして体制に賛同するばかりの知識人たちが多い。かつては知識人というのは、批判的に権力に向けて発言していたのではなかったか。単に社会を回すためにそこにいるのだろうか。
現状の知識人は、狭い専門分野についてやたら詳しい。しかし全体を見る眼差しに欠けている。とすれば、広い視野をもつ者に簡単に利用される可能性があるということである。むしろアマチュアであれば、いろいろな分野を縦横に動き回ることができるのではないか。もっとて広い視野をもつことができるのではないか。そんな可能性の扉を開く呼びかけである。
訳者は「あとがき」の中で、「本書で論じられている対象は、読者自身でもあるのだ。知識人論として出色の本書は、同時に、読者そのものをも議論の対象にしている。本書の読者もまた、知識人としての責務から逃れられないのであり、それが本書のもつ衝撃性でもあり魅力ともなっている。はたして読者みずからを亡命者、故郷喪失者とすることができるだろうか。」と述べている。そう、サイード自身が、ひとつの穴にどっぷりと入っただけの人間ではなく、さまようことを余儀なく強いられた一人だったのである。
そのあたりの考えについては、最終回の講演「いつも失敗する神々」の中によく描かれている。自らの人生を語るようなこの最終回については、それまでと口調が異なり、非常に実際的な、熱あるものを覚えた。だからであろう、「あとがき」に加えて、姜尚中氏が、この「失敗する神々」をテーマに「解説」を寄せている。姜氏もまた、みずからを一種の故郷喪失者として苦しみ生きてきた人であるだけに、共感するにしても、抵抗するにしても、決して抽象に終わらない重みを覚えるものなのだろうと推察する。サイードの考えを、日本というフィールドで活かす道のためのヒントを、提供してくれているのではないかと期待できるものであった。

た
か
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ワ
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