本

『小さな塵の大きな不思議』

ホンとの本

『小さな塵の大きな不思議』
ハナ・ホームズ
岩坂泰信監修
梶山あゆみ訳
紀伊國屋書店
\2,940
2004.3

 オタクという言葉がいつからか生まれた。特殊なマニアが、仲間内に話すときに「オタク」と呼び合うことから付けられたという。
 この本は、ほとんど「塵オタク」と呼んでよい。それは、軽視しているのではない。尊敬しているのだ。これほどに、あらゆる角度から塵というものに対して注意を払い、およそ愛情を注ぐべき対象として記している人が、ほかにいるだろうか、という意味でもある。
 塵とは何か。そもそもこの身の回りにどれほどの塵が存在しているか。それは目に見えず、しばしば私たちは意識すらしていない。だが存在する。どれほどあるのか。どのようあるのか。まず冒頭から、私たちはそこへと目を向けさせられる。そうして、宇宙空間の話からほとんど宇宙生成のロマンにまで思いを馳せることができ、砂漠や火山といった過酷な自然状況の中での塵がまるで友だちであるかのように語られる。それから歴史の中での塵の謎に挑み、今の私たちの世界を取り巻くあらゆる塵についてのほとんど蘊蓄にも似た塵談議が延々と続く。
 私にとり見逃せなかったのは、喘息との関わりを述べた第10章である。喘息患者はアメリカでも急増していることが指摘され、その原因を一つ一つ吟味していくという実験が行われている。ただ、これこそが喘息の原因であり悪者である、という対象はついに見つけることができない。これは私が推測するのだが、人間の側にも喘息になる要素のようなものが潜んでいる以上、特定の原因が外部的にあるがゆえに喘息になるという単純なものではないからではないかと思う。だから個人により、外的原因が喘息を起こすかどうかに差があり、だから一概にこれこれが喘息の原因だと言うことができないのではないか。
 ともかく、あらゆる塵が検討されていくさまは、我が子の喘息経験を顧みるに、思わず力が入っていくことになる。
 最後の章は、「塵は塵に」とある。人は死んで塵となる。その先のことも、一度唯物論的に冷静に語られる。物としての人間の記述は、まさにその通りだ。しかしだからといって宗教的には云々という反論をここで呈するような真似はしたくない。これは宇宙論なのだ。宇宙もやがて終末を迎えるとするなら、また塵に返るという、当たり前のことを述べているに過ぎないのだが、人はそれをどうにも認めたくない傾向にある。
 ともかく不思議な気持ちになる。そして、冷静に自分というものを見つめてしまう。それはまた、掛け値なしの自分の価値というものを考えていくときに、必要不可欠な営みであるように、私は思われてならないのだ。




Takapan
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