本

『時間は実在するか』

ホンとの本

『時間は実在するか』
入不二基義
講談社現代新書1638
\780+
2002.12.

 本書が何を意図して、何をしようとしているか、については明白である。マクタガートというイギリスの哲学者が論じた時間論の紹介と、その批判である。それは「はじめに」にも書いてあるし、実際読み進んでもその通りであり、なんの問題もない。しかし、その細かな議論については、勝負する気持ちが途中で失せてしまった。もちろん、議論の柱である、時間の2つの軸についての理解ができないということはない。しかし、私の理解力を超えて哲学的な議論が展開していくので、殆どただの観客になってしまった。グラウンドでは、プロの技術の粋を極めた議論が繰り広げられているのに、ただの素人観客は、観客席から「おお」とどよめく程度のことしか言えず、ただただ試合を見守っているだけで終わってしまったという感じである。情けないと言えば情けない。
 それで、本書の議論をここで紹介しようなどという無謀なことはよすことにする。
 時間を論ずるためには、やはりどうしても、過去の遺産に触れないわけにはゆかない。本書でも、ゼノンのパラドックスやアリストテレスの批判、アウグスティヌスの名言など、西洋哲学の範疇でも持ち出すこと必至のものがある。しかし、ナーガールジュナの『中論』がクローズアップされると、不慣れな場合には少し時めく。しかしそれが、マクタガートへの橋渡しをなすであろうとするのである。マクタガートは1925年に亡くなった人なので、決して最新の思想家というわけではない。だが、彼は「時間の非実在性」を証明したのだという。
 そこで前半は、しっかりその証明を追いかける。批判しようにも、その証明議論をきちんと説明しないでは、読者に何も届かないだろう。また、証明自身の中に、後に批判すべき事柄が隠れているために、よほど丁寧にこれを示しておかなければ、書物としても失格であろう。こうして、本の中ほどまで、その証明がゆっくりと説明される。
 そこでは、時間が2つの概念で捉えられていることを明らかにし、その違いや、それによりどう矛盾が生じてくるのか、ということへと話が進む。
 そもそも概念を表す言葉が、扱う人により別々の概念として捉えられていることから、しばしば議論の噛み合わな差が生じる。だからここで証明したい命題「時間は非実在である」の中でも、「時間」とは何か、まずここから相当に怪しい。もはや時間そのものを定義するということさえ暴挙であるかのように、時間なるものを話し出したら、噛み合わないこと必定という感じなのである。
 ハイデガーはこのマクタガートの時代にはそぐわないが、ハイデガーだと「時」と「時間」との間に重大な区別を呈した。私たち日本人でさえ、「時刻」と「時間」の違いならば意識できるし、生活の中で区別していると言える。聖書的世界では、「クロノス」に対する「カイロス」が、決定的な相違となる。このスタートから、まず挫折しそうになるくらいに、複雑な場面を迎えそうであるが、著者はこのことに拘泥するつもりはない。
 ただ、2つの時間の系列の相違だけは、徹底的に区別して扱う。A系列は、現在(いま)が、固定しない。過去はその過去の時点で「いま」であり、この現在はその時点で「未来」であった。未来になると、この現在は「過去」となり、未来のその時点が「いま」となる。B系列は、その点は固定観があり、「〜より前」あるいは「〜より後」という関係の中に置かれている事象を想定する時間である。
 時間とくれば、ほかにもいろいろ考慮すべきことはあるはずである。ユダヤ民族みたうに、人間は過去の方を向いて時間の流れの中にある、未来は背中のほうだから見えない、と捉える感覚をもつ場合もある。まるでボートを漕ぐようである。私たち存在者のほうが未来に歩いていくようにも思えるし、私たちはじっとして、時間のほうが流れているかのように考えることもできる。そして、現代物理学は、さらに冷静に、数式の中に時間を追い込みもするであろう。
 だが本書では、マクタガートの時間の非実在性の議論に集中する。新書だから仕方ないのかもしれないし、しかしそれでも新書でこれをやろうとすることがまた凄い勇気であろう。引用注も何もないのだ。
 この証明の弱点を、著者は後半で指摘する。この系列の扱い方に甘いところがあったのだという。そして、この系列の考え方を認めながら、ある概念を持ちだして、もう一つ別の時間論を繰り出す。その結果、時間は実在するかという問い自体が、意味のないものに変じていく。
 途中、「実在する」という概念をも俎の上に載せる必要があった。物としての実在ではまさかないだろうが、人間の観念の中にだけ存在して客観の中にはないのだとするのもどこかむず痒い。しかしどこにあるのだと問われても困る。定義ひとつからして、無理難題なのだ。また「非」ということも、何を意味するのか、検討しなければならなかった。一語一語、難しい言葉の並ぶ中での重要な「証明」なのであったが、さて、本書は本書のスタンスから捉えた時間に対する細かな議論。マクタガートはこれで乗り越えられたのか。また、今に生きる私たちにとり、問題はこれで解決したと言えるのかどうか。
 いや、そもそもマクタガートの前提でよかったのかどうか。
 哲学は、まだまだ時間論を展開できそうだ。




Takapan
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