『増補版 時間認識という錯覚』
首藤至道
幻冬舎メディアコンサルティング
\1300+
2018.3.
時間というテーマは、私が哲学に手を染めた契機でもあるし、それは真剣に求め続け考え続けたものだとは言えないまでも、いつも気になりながらここまで来た。しかしそろそろ、それともう一度向き合う必要があるように感じ、読み物を探していた。それは観念的であってもいけない。また物理学の解答を期待しているわけでもない。どれをも適切に含みながら、あらゆるジャンル制限を抜け出して、捉えたい問題である。
そこへふと見つけた本であった。著者は半ば素人のような人みたいである。しかし時間を「認識する」側の問題として、ゼノンの飛ばない矢のパラドクスをテーマに取り上げているのが気に入った。サブタイトルが「時間の矢の起源を求めて」とあったので、一つの題材にこだわって考察するのも悪くないと思ったのである。
学問は、教授でなければ務まらないとは思わないし、学者の文章だけが信頼がおけるなどとも思わない。だが、そうした面々は、論述することについては確かにプロである。自分の文章を、論敵が読んでどう攻撃してくるかということを気にしながら綴るものである。他方素人であれば、自分の思いついたことを言い広めたくてたまらないので、いうなれば独り善がりになりやすい。この視点の違いが、本になった場合には、大きな違いとなって目に見えて感じられるようになる。
ということで、本書はやはり素人目線の作品であったということがひとつの結論である。時間の流れは脳が生み出すのではないか、という観点は面白い。事実、そのような見解を出している脳科学者はほかにもいる。あるいはそれを著者はヒントにしたのかもしれない。時間の流れは認識の結果存在するだけであることを証明するという意気込みが掲げられた。この、時間の流れとは何かという探求であったと思っていたら、初めに、時間の流れが当然のことにように前提されて、時の流れの中に私たちはある、というところから話を始めていくので、どうにもはぐらかされた気持ちになった。結局物体の運動を熱心に説明していくにしても、そもそも時間は認識の中でしか成立しないという命題をどこかに置き去りにして、流れる時間がどっしりとその運動の背景にあるという前提でどんどん語られていくので、いったい問題はどうなったのだというもやもやした気持ちのままで付き合っていくことになる。
その話題はあちこちに触れて動き回る。現象学というものには触れることなく、フッサールの内的時間意識を取り上げたり、錯視図形からニューロンに飛び、デカルトなり量子力学なりと進んでいくと、最初の意識の問題はどうなったのかと戸惑ってしまう。
たくさんの勉強をなさっていることは分かる。だが、自分が懸命に勉強したことをまとめて発表する場として本書をつくった、ということ以上のものは、どうにも伝わってこなかった。学者さんでないから仕方がないが、たくさん挙げられた文献は、悉く日本語の本である。そこに幾度も『ニュートン別冊』や『日経サイエンス』か登場し、数々の「新書」や「文庫」の類が多くのを占める。あとは普通の単行本である。これらをよく読み理解して、学んだことを懸命に自分の口で再び説明しようとし、図解も加えるなどして、いつの間にか自分が何を言いたかったのかが分からなくなっている、というふうにも見えた。高度な数学や物理学の理論を用いている内容も多いのだが、数式はひとつも登場しない。それは読者に不親切だから、というよりも、そもそもこれらの参考文献には数式が登場するものは殆どない様子だから、著者自身もなにひとつ数式をたどった訳ではないのだろうと予想される。なんとか理屈の言葉で説明を尽くそうとする、それこそ『ニュートン』のビジュアルなやり方をそのまま踏襲しているのではないかと思われるのであるが、どうだろうか。
最終的な結論になって、再び時間が認識の結果としてしか存在しないと大きく振りかざすが、このとき急に「時間や現実は」と主語に「現実」が加わる。そして、目の前を流れていく時間を眺めて心の中をのぞきこむのだなどと詩的な呟きの中で本文を結ぶのである。何故存在しない時間が目の「前を」流れていくのか、読者ははぐらかされるばかりだ。
気になってインターネットで検索すると、独身の普通の五十歳代の男性で、国語教育にも関心があるらしい。そして本書は英語版の出版も計画しているという。いやはや、とんだ道楽につきあわされてしまった。こうした類のものには以前も出会ったことがある。真摯に時間について考察したい人にはいい迷惑である。ただし、その思いつきの中には、確かにちょっとおもしろいものもあった。せめてそのネタを教えてもらったということで、とりあえす我慢しておくことにしようか。