本

『時間の終わりまで』

ホンとの本

『時間の終わりまで』
ブライウン・グリーン
青木薫訳
講談社
\2600+
2021.11.

 どうして注文したのだか、記憶がない。きっと何かの本の参考文献かお薦め欄にあったのだろう。内容も、ネットで分かる限り情報を得てから、読みたい、というところに行き着いた。
 これは物理学の話である。
 そもそも「時間」については、私の哲学の始まりのひとつの要素だったので、このタイトルは首を突っ込みたくなる。物理学的な観点も、もちろん歓迎だ。だいぶ前に凝った頃と比べても、物理学の進展があるので、最新の見解を求める気持ちもあった。サブタイトルに「物質、生命、心と進化する宇宙」とあって、何でもありという感じもした。「心」について触れるのももってこいなのだ。
 著者は、先にベストセラーを出しているという。『エレガントな宇宙』だといい、物理学者でありつつ、筆が立つというところなのだろうと思う。日本にも、そういうタイプの人がいた。古いが、寺田寅彦氏はまさにそういうところだろう。
 本文だけで500頁を超え、さらに100頁余り、註や参考文献が並ぶ。申し訳ないが、巻末にまとめてこれだけの註が置かれていると、いちいち参照する気にもなれなかった。私は、註は段落毎にか、せいぜい章毎に置かれてあるのが好きだ。
 時間についての一冊である。しかし、哲学的ではない。哲学からは、ツッコミどころはたくさんある。そもそもそれだけが時間のすべてなのか、などの根本的な問題もある。だが、そんなことを本書が告げたいのではない。ただの物理的な時間である。鍵になるのは、もちろんエントロピーである。いつ頃からか、この言葉が世に広まり、その法則はいまや否定することのできないものとなっていると言えるだろう。
 この本は終始それをベースに語っているのだろうとは思うが、ありがたいことに、数式はひとつも使わない。数式の意味のようなものは、とことん語るし、日常的なところからつかみ所を得られるように、巧みに言葉を操る。確かにその辺りは巧い。だから、数式処理とは関係なしに、物理学がどういうことを探究し、いま分かっているのか、そこから時間についてどういう見解がもたらされるかについて、ふんだんにお喋りを続けたというのが、この大部の本の正体なのであろう。
 そのエントロピーであるが、単純に一方向的に増大するしかありえない、ということはないはずだ。部分においては、減少することもありうる。全体としては圧倒的に増大するしかないのだが、そもそも量子論においては、存在自体が確率的なものとして捉えられるようになってきたのだから、古代以来の素朴な実在論とは全くパラダイムが違うのである。
 しかし物理学が近年、どういう見方をするようになっているか、についてなど、分かりやすく説明するということについて、確かに著者はお見事である。十分愉しませてもらった。
 ビッグバンにおいて宇宙は始まるというが、それはある程度以前からよく言われていたことの復習である。だが、本書はこの時間論の中に、「生命」というものを交えてくる。そこはシビアである。生命も、粒子の集まりが一定の形で作用するようになったというような、冷徹な眼差しを忘れない。心理的なものや希望のようなもので説明することは、全くしない。物理学に徹している。だから、生命の発生云々から、「意識」という問題について、どうして意識が存在するのかというところにも、何らかの解説が必要になってくる。その意識は「自由意志」を感じているるではそれは何故なのか。ヒトの出現がこの宇宙において事実であるならば、この「意識」だの「自由」だのについても、物理学的に説明ができなくてはなるまい。さらに、「言語」に至るのがまた面白いし、特に「物語」という、想像力を必要とする営みがまさにあるのならば、その想像力とは何だろうか、ということに触れなくてはなるまい。
 それは脳のはたらきである、とでも言おうものなら、その脳は何をしているのか、話がどんどん人間くさくなる。ここで、「宗教」が説明すれることになる。つまり「信仰」である。ここは個人的に興味深く読むこととなった。
 こうなったら、「芸術」についても考察が進むことになる。だが、このように人間が現在辿り着いているところの世界を見渡すこととなった先には、何が待っているだろうか。終焉である。宇宙はいつか終わる。いや、その終わるとは何か、まだまだ分からないと言えば分からない。宇宙は膨張し続けるのか、ある瞬間から収縮を始めるのか。宇宙の観測は、著者専門の理論物理学と結びついてこそ、意味をもつ。その問題も興味深いが、それが問題になる以前に、もっと重大な出来事がある。太陽の消滅である。これは、核融合について分かっていることから、それなりにだが計算ができる。宇宙の運命がどうのこうのと言う前に、太陽が燃え尽き、巨星化し、地球がその中に包みこまれることは、避けられない未来である。
 このようにして、時間の終わりが見えてくる。それはただの想像のなせる業ではないはずだ。だが、著者は何故か最後に、哲学者のような眼差しを向けて、語り始める。私たちは死の中に意味を見出すことになるのだ、と。死を恐れるという思いは、人間にあるだろう。だが、ただ自分が死ぬというそのことだけと、宇宙が終焉する故に自分が死ぬということと、自分の問題としては、結果としては何も変わらない はずではないだろうか。だが、私たちは、この後者のことを考えると、無性に哀しく、空しくなりはしないだろうか。それは、自分が死んだとしても、その後の世界を誰かがまたつくっていくこと、誰かがまた生きていくことが、途絶えてしまうからである。たとえ自分が死んでも、子孫や後継者がそれを受け継いで未来を生きていくということがあれば、私たちは何らかの希望を有して死ぬことができるではないか。
 どのみち、生命は儚いものである。だが、いま自分は生きている。そこにはかけがえのない価値があり、自然と感謝が心に浮かんでくる。遠い過去を、遠いであろう未来を、パスカルではないが、自分は思考することができることは、やはり素晴らしいことではないだろうか。そのように考えることができる自分の心に、もっと問いかけていきたい。生きることに意味を見出すために。そして、自分が見出した意味を、誰かに物語るところに、喜びを、少なくとも生きる意味をまた、知ることになるのである。
 このような、時間についての知識と、それについての恐れは、私の思索のスタートだった。だから、本書のスタンスは、実に懐かしく、また、うれしいものだと思った。そこから見える地平は、私がこれまで感じていたことと、そう遠くなかったのである。




Takapan
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