本

『時間の解体新書』

ホンとの本

『時間の解体新書』
田中さをり
明石書店
\1800+
2021.10.

 手話についての哲学。この一言で、買う気になった。
 ある意味で、やられた、とも思った。手話の隅っこをかすかに知る私としては、手話という言語のもつ性質に、気づいていないわけではなかった。音声言語は、同時に二つのことを伝えることはできない。それは音楽のように、次の音が出て初めて次の内容に移ることができるのであって、絵画のように同時に多様なものが知覚されるものではない。しかし、手話は異なる。もちろん、時間的要素が消えるのではないが、時間とは異質のところで機能する。
 著者は聴覚障害をもつ兄がいる。家庭で使っていたサインは、手話ではなかった。だが、そういうことがあって、高校の時に聾学校を体験してみる。そこで手話と出会ったという。だが全く分からない。大学で手話を覚えることとなった。この大学の四年間で何を学んだか、どうやら公表されていないようで、どういう経緯からか知らないが、大学院で哲学に出会っている。すると、哲学の世界で手話が問題とされていないことが分かり、ショックを受ける。また、哲学は男性ばかりの世界のように見えた。この素朴な疑問が、著者の関心をひとつの方向にまとめる。
 そうしてできたのが、本書である。
 教授などではなく、大学の広報担当者として勤務しつつ、執筆をしているらしい。哲学雑誌『哲楽』の編集人であるともいう。在野と呼んでよいのかどうか分からないが、学会を形成するメンバーたる、いわゆる教授や学者ではないという意味で、思い切ったことのできる立場だと見てもよいかと思う。年齢も非公表のようだが、1970年代の後半の生まれではないかと思われる。
 まず、「手話と哲学者のすれ違い」と立てた章で、手話がいかに蔑ろにされていたのかを明らかにする。アリストテレスの見解が、近代科学の発生まで支配力をもっていたように、アリストテレスの手話に対する偏見が、なんといままで人類の目を曇らせていたというような形で攻撃するところは、頼もしい。それはその通りなのだ。また、日本でも口話教育が施されたことについても、かなり頭にきているらしく、本書ではその責任を、教育官僚出身の研究者である川本宇之介という人物にほぼ全部背負わせるような形で、その文章を挙げて、批判する。
 それより少し遅れてではあるだろうが、大阪に高橋潔という聾唖学校に勤める人がいた。口話教育を主張する西川吉之助との対立があり、やがて鳩山一郎が政治的に口話教育を推進する中、高橋潔らは手話を第一とする教育を貫く。この辺りの事情は、山本おさむの漫画作品によく描かれている。可能であればこの人たちの、手話教育についても触れてもらいたかったと個人的には思うのだが、本書の目指す筋道からは外れるということなのだろう、全く触れられることがなかった。
 ここからが本書の本筋である。マクタガートの時間論は有名だが、これをみっちりと紹介する。とはいえ、今回の手話特有の時間感覚を説明するための紹介であり、時間に関する三つの系列を明らかにするだけである。だがこの系列について、これほどに丁寧に説明してくれた本が、他にあるだろうかと思われるほどのものだと思った。そして、手話がどう時間を捉えるかという視点が、マクタガート自身の中にあったとは思えないために、その時間論の失敗があったのではないかというあたりに進んでいく。
 すると話題はいきなり、「産む」という現象に移る。女性が自分の中に新たな生命を宿し、それを覚えるときに、新たな時間が創造されるかのような感覚をもつであろうことへと迫っていく。ここでは、マクタガートの、時間の非実在性の考え方が批判されることになる。そして、そこには、死というものを認めたくない思いが潜んでいるのではないか、とも推測する。これは深層心理としては当然そうなのだろうと私も賛同する。が、根拠をつけて語るにはこの場では足りないだろう。たくさんのことを盛り込んだために考察が雑になっていると読者は受け止めるべきか、それとも様々な素材を散らしてくれて楽しいとするか、そこは意見が分かれるところかもしれない。
 本の帯には、「森岡正博氏絶賛!」とある。著者が親しくしている哲学者であり、ここでは巻末の「解説」を担当している。そこで、やはり口話教育などについては、田中氏に教えられることがあったことを正直に告白している。ろう者の歴史について、哲学者はやはり疎いのだ。いや、生命や身体についての考察の多い森岡氏のことであるから、知らないかのような言い方も、並の人よりはよほど知っているからであろうことは想像がつくが、それでも田中氏のほうがこの点で上回っていることは確実である。
 ただ、この「解説」は17頁もある。かなり、本書の内容を要約している部分が長いため、実は本書の要点を知るためにはここを読めばよい、とも言えるであろう。そして、本書のユニークさについては文句なしだということは認めている。だが、「解説」にしては、堂々と批判というか、物足りなさを指摘しているのも面白い。特に出産と時間論については、まだ十分ではない、ということを告げている。もちろん森岡氏は男性としてそれを経験できるものではない。だが、そこは哲学の営みとして、マクタガートの時間論が出産により批判されるという辺りに、まだもどかしいものを感じているということを述べている。
 私も、まだこの出産論は、どこか感覚的なものが十分言語化しきれていないような気がしてならなかった。そこで、出産についての議論は次の著作で充実させることとして、ここは手話だけで止めてよかったのではないかという気がした。著者の関心の二つは、ここで並べると唐突のようにも見え、またマクタガートの時間論を一度に崩さず、少しずつでもよかったのではないか、という気もしたのだ。
 時間論については、マクタガートだけがすべてではない。手話という豊かな内容をもち、音声言語にはない世界観を有すると思われる言語によって、もしかすると、20世紀を席巻した言語哲学ですら、その基盤を脅かし、殆ど気づかれていなかった点を明らかにした、新たな言語哲学を、手話という言語をその領域に含めることによって、構築できるのではないかと、私は密かに楽しみにしている者である。すると、音声言語が宿す時間感覚とは、別の時間感覚をもたらすこととなって、いま知られているような時間論の全体を、揺さぶる考察が生まれてくるのではないか、と思うのだ。  本書がそんな挑戦への、第一歩として用いれることを願っている。




Takapan
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