本

『地下室の手記』

ホンとの本

『地下室の手記』
ドストエフスキー
江川卓訳
新潮文庫
\400+
1969.12.

 邦訳の題もいろいろあるそうだ。とりあえず安く手に入ったものを読んだ。
 暗いと評判の本である。読みながら腹が立つ人もいるそうだ。全編が独り語りで、主人公がひたすら呟き続ける。だから「手記」というのだろうが、実に陰惨である。
 いまは40歳だと言っている。悪いが信用できない。ドストエフスキーの前口上に続く初っ端が、「ぼくは病んだ人間だ」から始まる。あるいは言い換えて「ぼくは意地の悪い人間だ」とも言っている。「以前は勤めていたが、現在は無職」なのだという。遺産が入って退職した後、ずっと地下室で暮らしているという。
 実際にこの「ぼく」が、どんなふうに呟き、世間をこき下ろしては、自己愛にのたうちまわっているかは、直にお読み下さるとよい。自意識過剰だとか、異常性格だとか、なんとでも呼んでやればよいと思うが、私はやはり、それが読者自身の姿だということに、どのように気づくか、というところにこそ、これを読む意義があるような気がする。
 私などは、最初からそうだった。だから、回想の中で思い描く将校との一件などは、そのあほくさいほどのこだわりや妄想が、実によく理解できた。なんだ、俺はこういうチンケな心の持ち主だったのか、と見せつけられるような思いが押し寄せてきた。
 この回想は、後半の3分の2を占めるものであり、ぼた雪を見た中で思い出したという設定になっている。前半では、ロシアの現実社会を愚弄するかのように批判する。私はそれはしないが、かつてはしていたかもしれない。今もこうしたことを毎日ツイートしている人間がいることを思うと、ドストエフスキーの人間観察は流石だと言わざるをえない。
 それにしても、この前半だけでも、検閲に引っかかるのではないかというほど過激である。ドストエフスキーは、作家としてデビューしたものの、政治運動をする中で危険分子として逮捕され、死刑判決を受ける。間一髪で命を長らえたものの、シベリア流刑となり、苦労する。こういう経験は、他の長編小説でも十分利用されていると言えるが、政治的発言は、自分の命を縮めるものとなりえたはずである。
 その後半の回想では、さきの将校との出来事のほかに、友だちに軽く扱われることに、内心怒り狂っている。そしてついに正義は勝つのだ、と言わんばかりに、自分が正統な見解を述べて、彼らが自分に触れ伏すシナリオを頭に描いたり、決闘のシーンをマンガみたいに想像したりする。どうかしていると言わざるをえないが、どうにもその「気持ち」は分かる。妙に私は親近感をもってしまうのだ。
 最後は長きにわたり、いわゆる娼婦のリーザとの関わりを思い起こして記す。長広舌を垂れ、リーザに延々と人生論や社会論をぶちまけ、彼女を汚らわしいと呼ばわりとことん精神的に虐待しておいて、それでいて内心彼女への愛を覚えるなど、クズとしか言えないような振る舞いをし、考え方をしている。いや、自分から愛するなど、できないのだ。彼女のほうが自分を愛するだろう、というような高慢な思いしか懐くことができないのである。
 他人をとことん軽蔑する。自分は常に正しい。そしてその気位の高さと現実とのギャップは、奇妙な想像で補い、ただ独りで高笑いをする。
 ドストエフスキー自身にも、そういう精神の部分があったかもしれない。だが、そのようなことに還元するのはよろしくないと思う。作品をちゃちなものに貶めようとする者は、そのようにこれは作家自身のことだ、というお決まりの結論を振りまいて、作品の中の異常さを作家のせいだけにする。自分はそれとは関係がない、自分はそういう精神状態とは無関係である、と誰かに見せつけたいのである。
 ここにあるのは、自分には罪がある、ということを忘れた人間の辿る道だ。私にはそのように思われて仕方がない。ドストエフスキーの作品にも、そのような人間が多々現れる。他方で罪深い自らを知るピュアな存在と、それが著しい対比を示すというようにもなっている。このような構図を私は感じる。自分の罪、それはとても重要な、精神のプロセスに違いないのだ。
 口では、いくらでもいえるから、また質が悪い。口で自分は罪人です、と教会で信仰深い演技をするが、内心ではそんなことあるものか、とほくそ笑んでいるような人間は、必ずいると言ってよい。中には、そのような罪というものが本当に分かっていないのに、牧師という地位に就いて説教をするような輩もいる。教育など何も考えていないのに教師をしている者もいるし、世の中には危険な人物がたらふく存在する。
 そういう中で、自分はここの描かれた「ぼく」のように危険なのだ、ということを根柢に考えをスタートするならば、逆説的にそれが、新たな道を切り拓くのだと私は思う。但し、それはひとが単独でできるものではない。特別な方が、その道をつくり、その道となる。ドストエフスキーも、やがて大作に於いて、そういう道を示すようになっていく。その過程にある、小品ながらも、ひとの心をえぐるような、快作であると私は受け取った。




Takapan
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