本

『痴愚神礼讃』

ホンとの本

『痴愚神礼讃』
エラスムス
沓掛良彦訳
中公文庫
\857+
2014.1.

 世界の名作を読みたいと思い、図書館で見出して読み始めた。ウリ文句は、「ラテン語原典訳」である。そして、膨大な注釈である。この辺りの事情は「訳者あとがき」にも書いてあるが、エラスムス独自の、恐らく記憶に頼った形での、古代文献や聖書からの引用や衒学趣味のような知識を、一つひとつ細やかに注釈している。本文が200頁強であるのに対して、注釈が100頁弱あるのだ。
 とにかく凡ゆる知識に通じているようである。ふざけた皮肉やあてこすりの連続のようでありながら、多くの権威や、自負心の塊のような存在に対して、適宜ちゃんとした根拠を伴いつつ、おかしみをもった形で批判をしているように見える。
 それは、いまでいえばSNSで気の利いた批判をするようなものが、延々と続いているようなものではなかろうか。
 親友トマス・モアに向けての挨拶めいた手紙から本書は始まる。そこで、ギリシア語の「痴愚」を表す「モーリア」という名の女神を想定し、それに世間の有様を語らせる、という想定を紹介する。
 トマス・モアはエラスムスより9歳年下だが、強い友情に結ばれ、有名な『ユートピア』を著している。この献辞文では弁護士として紹介されている。そしてモアは、本書に触発されて7年後に主著を発表している。こちらもまた、政治風刺の様相をもち、当時の人文主義の思想を遺憾なく発揮している。
 エラスムスの方は、本書が架空の女神による演説擬古文であることを掲げつつも、実に滑稽に、世間を皮肉るような書き方をして、「権威」にあぐらを掻く者たちを笑いのネタにしている。どうやら極めて短期間に一気に執筆したらしく、そのため逆に勢いというものを感じさせる。頭に思いついたことを、立て板に水の如く吐きだしたかのようである。
 漢数字で、「一」から「六八」まで、章の如くに区分がなされているが、元々の底本にはないらしい。ただ、18世紀にフランスで訳されたものから付せられており、便利なので採用したという。但し、訳文を読む上では、そこで一行空けるようなこともなく、漢数字もさして目立たないために、読者は殆ど気にせずに読み続けることができるだろう。但し、巻末の膨大な注釈では、その漢数字の仮の章の区分により、新たに「1,2,3,……」と数字が付けられて、引用元や解説がなされている。一つひとつの説明は短いのだが、とにかく膨大な数に上るため、そこに聖書やギリシア・ローマ文学などについての知識が宝のように並んでいる。教養の坩堝といった感じがする。
 また、訳文に於ける段落も、読者の便を図って訳者の判断で増やしたことがあるという。確かに、どうして西洋の筆者は、段落というものをつけることが嫌いなのか、と思うくらい、様々な本で、だらだらと文が並び続いてゆくので、本当に読むときに疲れるものである。訳者は、それを少しでも解消したかったそうである。
 辿ることは、これからお読みになる方にお任せしたいが、よくぞここまで人間のすることを「愚か」だとこき下ろせるものだと、半ば呆れるようにして読んでゆくしかないようだ。私は幸い、哲学方面のことで言っていることは幾らか分かるし、聖書と教会に関しては、痛いくらいにその攻撃を受けるようなものである。逆に、ギリシア神話には疎いので、この女神の弁じているところを十分味わえたとは思えないでいる。
 聖書については、何も神を冒涜するような言明をしている訳ではないと思う。むしろ、キリストは自ら小さく愚かな者となって人の世に救いのために来た、という点を徹底させているといえるだろう。だから、やはりキリストや聖書を以て自分たちが偉くなっているかのように権力を振りかざすような聖職者や教会組織というものに、疑義を呈している、というふうに見てよいだろう。その意味では、現代の聖職者や教会組織もまた、この点を真摯に受け止める余地があるというものである。
 おちょくるような口調は面白くないかもしれないが、その意味では現代でも、新聞の片隅に風刺漫画があったり、読者の時事川柳が載っていたりするのと、さして変わらない。素人が何を言うか、というふうに黙殺されている政治の有様を傲慢と呼ぶならば、キリスト教と名をつけているにせよ、批判を蔑ろにするのは、同様に傲慢であるはずである。むしろ、神の名を騙り権威をひけらかすような有様では、より悪質であるとも言える。
 そして、一人ひとりのキリスト者もまた、思い当たるところがないか、そういう想いで受け止めてみてはどうか、と思う。信仰とは何か、改めて問い直す機会となれば、読んだ甲斐もあるというものだろう。




Takapan
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