本

『セラピスト』

ホンとの本

『セラピスト』
最相葉月
新潮文庫
\840+
2016.10.

 順番としてはこちらが先だが、私は『証し』を先に読んだ。そして、心理学、否心の病という問題に挑んでいた同じ著者の作品に臨んだ。「セラピストとクライアントとの関係性を読み解く」という紹介があったが、この作品のためにも、『証し』の6年という取材に近い、5年という歳月をかけている。じっくりと向き合うその誠実さには敬服の思いしか返せない。
 河合隼雄と中井久夫との関わりが、その多くの部分を占めている。オーソドックスといえばその通りだが、どちらにしても、通常の心理学や心理療法に画期的なエポックを築いた人だ。つまり、淡々とした精神医療に、新しい世界をもたらした人である。そして、二人とも、素晴らしい文筆家であるという共通点がある。著者がその文筆業とのつながりで二人を選んだとは思えないが、心を何らかの形で扱うということは、それなりの文章力が必要になってくることは間違いない。
 2013年の単行本から3年後に文庫化された本書は、最後に1割ほどの、文庫版書き下ろしが付くが、それにより500頁を超えるものとなった。この長大なレポートも、登場する人々の個性と、筆者自身の関わりとが、読者を少しも飽きさせない。それほどの筆力ということになるだろうが、それよりもなお、人の心という内面をえぐるテーマが、少なくとも私を離しはしなかったということだろう。
 実際のカウンセリング風景もたっぷりと続く。本人が受けたものも生々しい。また、そうやって描いた絵が最初にカラーで載せられているのも興味深い。
 心理療法で、河合隼雄も中井久夫も、大きな足跡を残したが、しかしそれがいまなお通用しているとは言えないともいう。精神医療は、日進月歩である。否、それは語弊があるかもしれない。医療そのものが古くなるのではなく、人間の方が変わっていく、という見方の方が適切なのである。世の中が変わる。社会が変わる。人と人との関わりも変わるし、その中で病名すら変わる。そもそも、同じ患者が別の精神医にかかると、違う診断が下されることも当たり前であるようなのだ。人間社会の変化により、対応しようとする人間、あるいは対応できなくなる人間というものが、また新たな形の歪みを生んでしまうのである。
 とはいえ、河合隼雄や中井久夫の登場にまつわるエピソードや、著者との関わりについての細かな描写は、食い入るように見てしまう。中井久夫の登場など、沈黙の中で患者と何分でも同じ場にいるという風景が、周りを驚かせたことが、甚だしく印象的である。しかしまた、患者にはどのように対応すべきなのか、医療側の論理や心理学的な理由なども、著者は漏らさず読者に提供する。よくぞこれだけ学んだことだろうと思うし、ひとつ間違えば微妙な悪い影響を与えかねない内容の本書を、これだけ豊かな魅力と時に大胆な主張とで満たしたものだと感銘を受ける。
 だから、内容について私がとやかく説明をするつもりはない。ただ、文庫版書き下ろしにて、心の病をもつ人々による会社との関わりがレポートされているが、そうした中で、著者自身の心の病の問題がやたら世間で持ち上げられているようなところに、少々落胆していることにも触れている。確かに、本書で著者は自身が患者として経験したこともレポートしている。だが、私たちとて、精神医療を受けていないだけの話であって、何らかの異常さか病的なものを有しているはずである。少なくとも私はそう確信している。つまり、著者は当事者としてこのテーマに挑んだというだけのことなのだ。それは、キリスト者の心を扱った『証し』でもそうだと思う。著者はキリスト者という立場になったわけではない。しかし、思いからすれば、限りなくその世界にいる。そして、信仰の当事者として触れあった百人以上の方々の「証し」を集めたということである。本書に現れた多くの医療者と患者もまた、心の問題の当事者としてそこにいるのであり、著者もまたそこに加わっていたということではないのだろうか。
 セラピストとそのクライアントを取り巻く情況は、本書の発行された後も、刻々と変化している。本書には、子どもの心理にまで踏み込む余地はあまりなかったが、いまの子どもたちだけに限ってこうした点を探るというのも、また必要なことかもしれない。しかし、凡そ誰もが心の病の当事者であるという覚悟で、誰もが関心をもち、共感していくようでありたい、と私は切に思う。自分が実は病んでいる、という思いが、どうしても必要なのだ、と。
 厚みのある本だが、きっとどなたでも、無理なく読み進められると思う。機会があれば、ぜひ自分の問題として、触れて戴きたいと願っている。




Takapan
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