本

『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』

ホンとの本

『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』
竹内一郎
講談社選書メチエ354
\1680
2006.2

 著者自身もアピールしているが、これは画期的な本である。
 手塚マンガとは何だったのか、を検証している。
 その際、社会的影響はどうのこうの、に終わるだけでは不十分である。その発端はどうかという歴史的探索だけで満足するのももどかしい。いったい、どうして私たちは手塚マンガを偉大だと考えているのか。その空気というか、誰もが感じているようなところのものを、資料を十分に用いて、学術的に検証しようというわけである。
 手塚治虫は、何も一人で新しい何もかもを開拓したのではない。彼自身、多方面で評論を含めて文章における著述活動をしているが、その中で、自分は悲劇を描くという点においては新しいことをしたのだが、他ではそうではない、というふうに言っている、とこの本は捉えている。
 彼が戦後日本だからこそ、現れたのだということもできようが、それについても十二分に語られる。
 このような探索のための、問いが実に明確に立てられている。哲学では、問いの立て方が適切であるならば、仕事の殆どは終わったようなものである、という考え方がある。問うというのは、それほどに、全体をも支配するような、重要な原理なのである。
 マンガは、その技法と共に語られなければ意味がない。そのマンガの社会的地位だけで、あるいはそのマンガ家の生い立ちの暴露だけでは、何がどう語られたかについては、断片的に過ぎない。著者は、マンガを資料として掲げ、そこにどのような技法が用いられているか、についても明らかにする。もちろん、そうした技法を手塚がどういう歴史的背景の中で得たか、などの問題も見逃していない。
 マンガという世界は、剽窃もありの世界であるという。昨日世に出た新しいテクニックは、今日からもう誰かが真似する、あるいは少なくとも、用いるようにできている。手塚自身、そうやって生き延びてきたのである。
 論文を縮めたものであるというから、ある意味で読みにくい。実に堅いからである。しかし、そこを乗り越えて読むことができたならば、手塚ファンならずとも、マンガというのは何であるのか、何かすぐそこまで答えに近づいているというふうに思えないだろうか。
 たしかに、本文最終ページにあるように、マンガをきちんと論じていくことも必要な時代になってきた。また、論文である本文にはないような、血と肉との感じられる短いコメントは、最後の最後「あとがき」を一目見れば伝わってくる。
 古来の日本文化との関係などについても、やがてこのマンガ文化を接続する試みも現れてくるであろう。しかし、それをも想像させるような営みを、この一冊は為し得ていたと言ってもよいのではないか。そんなふうにさえ、思われる。
 いやはや、実にマニアックな、そして広大な守備範囲をもつ本でもあった。




Takapan
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