本

『そうだったのか手塚治虫』

ホンとの本

『そうだったのか手塚治虫』
中野晴行
祥伝社新書009
\798
2005.5

 手塚治虫はああだこうだ、と述べることは難しくない。しかし、それはたいてい傍から見ての手塚像である。この著者は、もう最初から、自分は自分の捉え方でしか手塚を見ていない、と宣言して書き始める。だが、私の目から見て、それは却って、手塚自身の眼差しをよく理解しているのではないか、とすら思えてくる。不思議なものだ。
 著者の視点ははっきりしている。手塚漫画を紹介することによって、日本人とは何かを問おうとしているのだ。私たち日本人が、日本人とは何かを問う。それは、自分とは何かを問うことにもつながる。著者が、手塚はアイデンティティを喪失したところから探究するマンガをベースにしている、というのも、そのためである。たとえばアトムがそうなのだ。アトムは、自分はロボットであることについて納得できないスタートをきっている、というのである。
 自分の好きなマンガに限定しているのですまない、と著者は言う。だがそれで十分である。漫画家としての手塚の歩みの中に差し入るように、自己を求め社会のつれなさを批判する手塚の姿を浮き彫りにしていく。音楽家がしばしば自分の置かれている状況を歌うように、漫画家もまた、世の中を映し出すというよりは、しばしば自分の立場からもがくようなところがあるのだろう。
 だからまた、その時代のことを映し出すことにもなるのである。著者は、手塚がまたその時代の中にあってその時代を見て、考えたことや感じていることを代弁するかのように、本を進めていく。
 ある時は超越者の視点から人間や世界を見つめ、だがやがてそれは、人間の立場での救いを求める中で、超越者の存在よりも、苦しみを超えてもたらされる内面的な救いを明らかにしていく手塚マンガの過程が、麗しく描かれていく。
 たしかに、それは著者の中野氏の思想であるのかもしれない。手塚を人形にして、自分の脚本で描いているだけなのかもしれない。それでも、手塚のやりたかったことを、的確に捉えているように思えてくるような気がする。
 アイデンティティは、自分ひとりで掴めるものではない。むしろ、人のために役に立つことによってのみ、自分でありうる、と著者は言う。手塚が、そう言っている、と言う。アイロニカルに言えば、自分が自分であるためには、人のために生きるしかない、というのだ。手塚が、少年少女向けのマンガに徹していたことから、やがて彼らが成人していくにつれて、大人のマンガも描く。大人をターゲットにして、すべての人に訴える手塚のスタンスが明確になっていくのだ。
 人のために生きる。しかし、国家のために生きよと強制しにかかる勢力は、仮想の敵をつくり、人を簡単に操ろうとする。日本もまた、そんな時代を過ごした。いや、いまもそういう時代であるか、またはそういう時代を招こうとしているのかもしれない。
 最後のほうの作品で、手塚は、当時のバブル全盛の時代にありながら、日本人がバブル崩壊後に茫然自失する姿を見抜いていることが明らかになる。しょせん人間なのだ。いったい日本人とは何なんだ、と問いかけている作品で結ばれるのである。
 やはり手塚は、火の鳥に何かを教えてもらっていたのではないか、とさえ思えてくる。
 手塚の死後、私たちはその課題を解決できていない、と著者は言う。たしかにそうだ。また、それは解決などできないものであるのかもしれない。
 いろいろな面で、深く考えさせるものがあった。お薦めしたい。




Takapan
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