本

『哲学の使い方』

ホンとの本

『哲学の使い方』
鷲田清一
岩波新書1500
\800+
2014.9.

 思い切ったタイトルである。が、これがまた適切であることは、読めば伝わってくる。
 阪大総長を務めた著者は、哲学者である。これまでも、哲学史研究という分野ではなく、実際に身近なこと、世界で起こっていることなどについての思索を行い、世に問うて来た。哲学はまさに、現実問題を考えるために使わなければならない、ということを言いたいかのようであった。
 今回、その使うことそのものについて考えよう、というのである。いわば、言語について語るメタ言語、自己認識を試みる自己のように、哲学の使い方を哲学使用というふうであるとでも言えばよいだろうか。
 結論から言えば、私にとりひじょうに快い本であった。もちろん私は研究レベルも思索の深さも、著者には追いつけるはずもないが、見ている方向については近いものをもっていた。つまりは、著者のパースペクティブがいくらか見えるような気がする、ということである。
 哲学とは何か、というテーマはよくあり、いうなれば哲学者というのは、これを問い続けて論述を続ける仕事を歴史上行ってきたといえる。しかし、えてしてそれは、哲学とはこういうものだ、というテーゼを提供しようとする形で終わる。何らかのまとまったものを提示して、哲学とは云々と言うのだ。それはもちろん、その人の考えである。その人の考えがどうであるのか、それこそ哲学だ、と言っているに過ぎない。
 本書の著者も、その枠を免れてはいないのかもしれない。いや、免れるというのは無理だろう。だが、新書という短い場でありながら、どこまでも同じひとつのところをぐるぐる回りながら、哲学を生きることについて模索し、格闘しているようにも見えないことはない。テーゼと無縁だとは言わないが、著者のこの闘いの過程が、私にとり心地よい戦績であり、模範のようにもなっていく。
 だから、章立てはしている本書であるが、どうにも構築物のような構成を呈していないように見える。どこから始まり、どこから捉えても、一定の読み方ができるように思われのだ。まるで、時間無制限で勝負のつかないプロレスを見ているかのようである。それは、私たちがどのような前提をも必要とせず、哲学することができる、ということを意味しているように思われる。それには答えが必要なのではない。答えは、告げた瞬間に次の問いへとなっていく。科学的命題のように、一定の成果を挙げる命題が提供できるというものでもない。真実を言い当ててそれで終わり、ということは考えらない情況である。
 答えが出ない。だから考えても仕方がない。そういうことではない、と著者は言う。むしろ私たちは、答えの出ない問題に対して、とりあえず手近で都合のよい答えを安易に現象させてそれで自分の精神を安心させようとする傾向がある。このことは、私も小さいころから感じていた。大人はなんと、それはこういうわけだ、と言ってしまってそれですべてを終わらせようとするのか、疑問だった。こうではないか、という問いかけをすることはあってよいのだが、それは先祖の祟りだ、と説明して安心し、それ以上はもう追求しない、という生き方をする大人たちに、そうではないだろう、と心のなかでいちゃもんをつけていた。著者も、きっとそういう心境だったのだろうと感じた。
 著者の喩えは面白い。このように、お手軽な結論を持ちだしてチョンと思考を切る、そういう処世術では満足できないということ、つまり、いや、でも、とさらに思考を続けるという哲学の姿勢は、息を止めて水中に潜っていられるだけの体力が必要な思考である、というようなことを言っている。知的に耐えられるというのは、万人に求められ、また実行できるものではないかもしれないし、そんなことをしても、科学的な成果が生まれるわけでもない。いわば世の中に何か役立つ成果を提供できるのかどうか、というと、実に怪しい。まさに、ギリシアの自由人が、自らは手を汚さず奴隷たちに実働をさせておいて、余った時間を哲学の議論で潰していたかのような、そんな構図である。
 だから著者は、哲学サロンを提案する。生産的な意見があるとすれば、この本が哲学カフェを提言している点であろうか。最後のほうで述べているに過ぎないが、そこでどんな高架がるのか、またそれはできるだけ具体的に言えばどういうふうな場であるのか、説明している。
 哲学研究室という場が大学にあった。講義のない時間は自由にそこに行くことができた。そこは若い学生から、院生、さらに時には教授クラスまで、たむろする場であった。そして、自由に哲学の話をすることができた。日頃思う疑問でもよいし、昨日のニュースを題材にすることもできた。海外留学の話をしてもよいし、読んだ本を紹介することもあった。面白いのは、何かしらの結論を求めるわけではなく、また、知識のない物を見下すようなこともなく、ある問題について、それはこうではないか、ああではないか、などととりとめもなく言い合うところであった。すると、自分の研究している分野からの意見を当然多く口にすることになるのだが、この専門というのがそれぞれ違う。だから、ある問題について、他の研究者からの視点がたくさん提供される場ともなった。「自由」について話題が始まれば、カントの自由を言う者、デカルトの自由の問題を話す者もいるし、ギリシア社会での自由概念とは、と持ち出す者もいた。必ずしもまとめない。自分が読み込んでいない哲学者の考えを知る機会ともなったし、それならどういう本を読めば詳しく分かるか、などを教え合うこともあったので、要するになんでも勉強になった。そして、何よりもそういう時間が心地よかった。
 著者は、このようなサロンを、もっと市民レベルで提供していきたいというような案を出していたのではないか。専門知識があろうがなかろうが、何かしら真面目にある問題について意見を発表し、それを聞いてくれるような人たちがいる輪、そしてそこからまた新たな視点を与えられたり、時にアドバイスを受けたり、ということも可能な場を求めている人は、いないわけではないのだ。頽落の日常の中ではとても持ち出せない真面目な問題意識を、じっと聞いてくれ、またその問題についてその人が考えている真面目な考えを聞くことができる、というような、考える場を求める人は、確かにいるのである。しかも、妙に人間的な関係がそこでできて、時にグループ化したりいじめがあったり、というようなことはご法度である。それは話し合いの場を崩してしまう。互いに名を知らぬ相手たちばかりでもいい。要するに問題や思索を、論文などではなく、気軽に語り、聞いてもらえるような場、そういうものを著者は目指している。それは、哲学的な問題に限る必要はない。たんに子育てに悩む人が、そのことを打ち明けるような場であってもよいのだ。福祉番組にそういうサークルが紹介されることがあるが、まさにそういうもので、打ち明けて見れば心が軽くなる、ということだってあるわけだ。哲学のサロンはそういうだけではないのかもしれないが、とにかく危険性を伴わずに考えを述べ合えるような「哲学」の使い方を、著者は最後に告げ知らせていた。
 これはなかなかいいと私は思った。
 さらに、キリスト教会というところは、けっこうそういう条件を持ちあわせている。だからこそこによいものがあるのかもしれない、とも私は思った。




Takapan
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