本

『寺よ、変われ』

ホンとの本

『寺よ、変われ』
高橋卓志
岩波新書1188
\819
2009.5

 長野県松本市で神宮寺の住職をしている著者が、これからの寺のあり方について、自分のしてきたことの証しをも含めて記した新書である。
 僧職の方の中にも、いのちある働きをしている人がいるということを知り、少し安心したような気もした。尤も、この著者は仏教界の中でもはみ出し者であり、むしろ今は異端的とさえ言ってもよいほどである。しかし、仏教が今後どういうあり方をしていくと生き残れるのか、いや、そんな我欲な言葉で説明をするとお叱りを受けそうである。仏教が、仏教としての働きを続けていくことができるためには、どう変わっていかなければならないか、の提言がなされている。
 人間の「苦」の問題の解決としての仏教観は、禅寺の僧としての眼差しである特色なのだろうか。だが、少なくとも仏教の開祖は、この視点からスタートしていた。人間は、そこから離れて偉くなるようなことはありえない。二千何百年前のインドの山奥でも、現代の日本でも、同じことのはずである。
 著者は、世襲であることさえ本来おかしいというような反省を踏まえ、そして何よりも、自分自身が死にかけた仏教の一員であったという自覚をもちつつ、戦死者との出会いの体験から大きく変えられて、寺はどうあるべきか、考え、実行に移してきたのである。
 これは、実に勇敢な戦いでもあるし、誠実な精神の営みでもある。その意味で、感動を覚えた。
 同じ「宗教」と呼べるものの世界にいる者である。著者のその苦悩や目指しているものについて、何も理解できないなどと言えるはずがない。
 好ましいのは、今も挙げたが、まず自分の体験、自分の証しを述べていることである。仏教が、自分の中で生きているということの証明である。真摯に問いかけていないと、これはできないことなのである。そして、多くの汗を流し人々と交わり、おかしいと思ったらそれを改めていくだけの勇気と実行力とを以て、歩み続けてきた結果が、この姿なのであろう。
 葬式仏教と言われて久しいが、そのうち葬式の場にすら仏教は不必要だという大勢にさえなりかねないと著者は言う。いのちを見つめ、死に対してさえも、生きている世界から見つめて送り出していく精一杯の誠意をそこに満たそうとする、ある意味で純粋な著者の思いが、この本からよく伝わってくる。
 他人事ではない。キリスト教会も、もしかすると、だんだんと「いのち」のないものになっていってはいないだろうか。形骸化し、儀式化するというのは、なんとなく礼拝に出ているだけという日常があるとすれば、まさにそのことを言っていることになるはずである。「教会よ、変われ」という気持ちは、抱いているべきではないだろうかと思った。
 真心はよく伝わってきた。だが、仏教の教義というものが著者の提言の中に強く出されることはない。そもそも仏教には教義などというものがないのだ、と言われればそれまでである。だから、実践しようと思えば結局何をしてもいけないことはない、ということになる。しかし、その根底に根拠のようなものが見いだせるわけでもない。その時代時代に合わせて形を変え命をつないできた仏教であるとすれば、著者の提言も、また時代の申し子であるというだけに終わるかもしれない。この時代であるがゆえの提言は、重要である一方、ではその次の時代にはどうなるのか、という先は見えない。もちろん、今このときの衆生の苦を癒すのだと言われればそれまでだが、その点で、キリスト教会は別のアプローチもできるかもしれないような気がした。
 いずれにしても、クリスチャンや牧会者が読んでも、「ためになる」本であることは間違いない。




Takapan
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