本

『天水桶の深みにて』

ホンとの本

『天水桶の深みにて』
R.ボーレン
加藤常昭訳
日本基督教団出版局
\3900+
1998.4.

 知識のない私は、「天水桶」というものを知らなかった。そもそもどう読めばよいのかさえあやふやであった。「てんすいおけ」、それは江戸時代からあるという防火用水としての水槽であるという。雨水を溜めることから、雨水即ち天水の桶という。本書でこれを訳語に用いたのは、訳者の思い入れによる。その辺りの背景は、「訳者解説」に詳しく書かれている。日本語のこれは、ドイツ語の原語にぴったり合うものではないからだ。
 副題に「こころ病む者と共に生きて」という文字も目立つ。重いこころを抱えて閉塞感しかないような人、外界から切り離された存在だと自分を思わざるをえないような人の様子を、それは表している。「天水桶」というイメージから、それをくみ取るのは至難の業である。しかし、それでもこのタイトルにした。説教者であり神学者である訳者の恩師の本を、心をこめて翻訳したのである。
 本が売れることをひとつの目的としている以上、これは決して得策ではなかったと思う。逆に、なんだろう、と心惹かれる人もいたかもしれないが、なんだろう、で終わりそうな気がしてならない。ただ、訳者を含め、その関係者が、時折この本について触れた発言をしていることがあり、私はどうしても読みたいと思った。古書市場ではかなり高い値が付いているため、なかなか手が出なかったが、あるとき私にとり入手しやすい価格で出ているのを見つけて、すぐに取り寄せた。念願の本だという思いであった。
 こころ病む者。それは、著者の妻である。教会で慰めの説教をする立場の夫の背後で、妻はこころが壊されていき、自死に至った。15年の苦しみを背負いつつ、著者は15年の思索を経て、本書を著したのであった。
 その経緯も少し記されているが、全体的には、こころを病む人々やその周囲にいる人々へのメッセージである。神学的な視点も踏まえながら、だが平易な言い回しで、誰の心にも届くような語りかけがなされていると思う。
 自分が如何に律法主義でいたか。それは、私たちがしばしば口にするような簡単なものではない。非常に深い思慮の中で告げられていることなので、確かなことは本書に直に触れて戴きたいと願う。題にある「深みにて」が効いてくるのである。それは、著者の神学のひとつの大きな中心が、「魂の配慮」という考え方にあったことからも窺える。日本では普通「牧会」と訳されている、牧師や教会の指導者が営むべきであるとされている、教会員をまとめあげるようなことが、ドイツ語の表現からすると、人の魂を大切にすることにある、とする加藤常昭氏の強調により、日本でも次第に知られるようになっていった。私もその訳語に賛同する。「牧会」という言葉からは、何がどうなのか、伝わってこないのである。
 それはそうと、本書では本当に痛々しく、また重い語りが続いていく。読んでいくだけで、こちらが鬱的になっていきそうな気配もあるが、誤解して戴きたくないのは、やはりここには希望があるということである。聖書の言葉があり、その向こうに神がある。神が見つめている。神に向かっている。神からのものが注がれている。それを受ける信仰が必要となるが、それもきっと与えられる。まさにそこに「天水桶」の必要がある。「天水桶」が与えられ、私の魂はそこに神からの恵みを受ける。読者のこころも、胸をえぐるような本書の数々の導きにより、再生されるであろう。
 当事者の苦しみについては、とても分かると言えるものではない。自分だったらどうなるだろう、と思うともう何もできなくなるのではないかと思われる。心して読まねばならない本だということだけは、強調して然るべきであろう。
 ひとつの特徴は、訳者も触れているが、スクリーヴァーという人の考えについて取り上げて、かなり詳しく語っていることである。重いこころを抱くとき、恐らく著者自身が光を見出すきっかけとなったであろう、その思想については、貴重な紹介であり、証言であると言えるものだということである。
 最後に、短い説教が二つ収められている。聖書の解説とは程遠いものであるが、こころにずっしりと響く佳作である。読者は、その語りの向こうに、確かな神の手を覚えるだろう。
 訳者は、巻末の「本書の読み方について一言」とあるところを、本編に触れる前に読むことを勧めている。同時にまた、本編の読後に、再び読むとよいだろうと思う。原著の中に訳出しなかった点が多々あることなどについて触れるなど、訳者が随所で顔を出す本である。だがそれは、良き弟子として、恩師のこころを日本の読者に伝えるために、相応しい営みであっただろうと推察する。それだけ省略しても、日本語で二段組みの大部となっている。しかし厭きさせない真摯な思いに溢れている。出会えてよかった。




Takapan
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