本

『天使と悪魔』

ホンとの本

『天使と悪魔』
秦剛平
青土社
\2520
2011.10.

 タイトルそのものもちょっと人の心を誘う魅力があるが、副題が謎めいている。「美術で読むキリスト教の深層」となっている。秦剛平という著者についていくらか知っていると、この副題の意味がなるほど、と分かるかもしれない。美術大学の教授であるが、ギリシア語文献にかけて多くの業績をあげており、なにぶん本を書くのが上手なので、人の手に取ってもらえるような本のライターとして、売れっ子と言ってもよいほどの人である。
 ただ、そのはっきりとした物言いが、自信たっぷりで、そこが面白いという人もいれば、嫌いだという人もいるようだ。
 カルチャー教室の六回の講義をもとにしてまとめた本であり、ついでにその講義の実況録音ばりに、くだけた語り口調と、冗談めいた言い回しもしっかり残してある。語ると、いろいろ軽いことも言ってしまうものであり、だからまた、この人の本音もずいぶんはっきりと現れている本となっているかもしれない。
 一枚の絵を丹念に追う、という感じではない。主張を裏打ちするために、様々な美術作品とその歴史の中から、適切なものを次々と並べていく、いわば美術館を足早に駆け抜けていくような感覚がある。テーマは天使と悪魔であるから、その六回の講義は、天使の起源・悪魔のイメージ・悪魔の誘惑・死神・リンポと煉獄・新しいエルサレム、という軸に沿って流れていく。そこに、副題にあるように、キリスト教の深層があるのだ、という見通しである。いや、それは著者の見解の露呈であると言ってよいだろう。自分の心の深層にあるものを、うまくこれらを題材にして吐露しているように窺える。
 それは、教会だとかキリスト教信仰だとかいうものに、真っ向から挑む対決姿勢である。講義であるから同じフレーズが幾度も現れるのは当然と言うべきなのだろうが、それにしても、ことある毎に、自分は天国のような退屈なところでなく地獄にぜひ行ってみたくてたまらない、と繰り返すとなると、嫌みを通り越えてしまう。つまり本人は、聖書など嘘なのだと言いたいのであり、また信仰者から見ればこれこそ悪魔の姿である。
 さらにこういう語りの中でだから言っているのだろうが、ブログの中で著者を批判している人が匿名であるからと言ってぼろかすにけなしたりする。そのカルチャー教室では大いにウケただろうが、さて、書いて本にしてしまうと、どう受け取られるだろうか。このあたり、難しいものがある。そして、この文章そのものも、著者の目に触れたら即ゴミ箱に捨てられてしまうことだろう。
 かといって、私は何も著者の冷静な見識を否定するようなことはしない。それはむしろ著者の思う壺なのだ。たくさんの知識と研究成果を大いに尊重しておけばよいだろうと思う。ただ、途中から恣意的な解釈が入るのだが、それが、著者独自の路線であることをはっきりさせておいたらよいのだ。
 キリスト教の歴史が何も善であるわけではない。人間の醜い失敗がそこに重ねられてもいる。それを美化する必要はない。無謬であるなどと護教的態度をがむしゃらにとる必要はない。画家の描いた絵が天国を正しく表していると思うのも無理がある。それぞれの時代、それぞれの文化の中で、精一杯イメージしたものがそこにある。時にそれは当時の権力者に都合のよいように利用されもしただろう。利用するために書かせたというものもあるだろう。何も悪魔の尻尾を私たちにしても信じているわけではないのだ。人の想像力に乾杯でもしながら、私たちはその向こうに見えない神の愛を覚える。神の摂理など、人の知恵で悟ることのできるものではないにしても、その光があるからこそ今このように見えるのだという気づき方もあるだろう。そのようにして神を感じること、神を覚えることが、ことばなる聖書の神に触れた経験のある者たちが、一様に証言することであるのだ。
 さて、この本をどのようにお薦めするか。それは、信仰者であるならば、十分聖書とその神との出会いが土台にあるような人が、広い見聞を求めるときに、大いに役立つことだろう。とくにカトリックの考え方については、著者もやや疎かったと告白しているほどで、プロテスタントの側からは知らないことが多すぎる。聖書の記事が、歴史の中でどのように受け取られてきたか、あるいは曲げられてきたか、そんな歴史を見るためには、実によい物知りの本である。大いに活用させて戴きたい。ただし、聖書を端から嗤う姿勢で扱っている著者のカルチャー教室でのハイテンションに、腹を立てるようであってはならない。そこをおおらかに包み、許すくらいの寛容さをお持ちであれば、自分の信仰や知識のために、助けになることが少なからずあるだろうと感じるのである。




Takapan
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