『天才シェフの絶対温度』
石川拓治
幻冬舎文庫
\690+
2017.4.
かつて、2012年に発行された『三つ星レストランの作り方 嚆矢の天才シェフ・米田肇の物語』を改題し、加筆したものだという。そして今回文庫となったときの副題には、「「HAJIME」米田肇の物語」と付いており、タイトルが『天才シェフの絶対温度』と変わった。
どうしてこの本を知ったか。恥ずかしい話だが、米田肇という人についてもそれまで知らなかったし、シェフの世界というものについても、何の知識もないに等しかった。しかし、数学が料理になる、というふれこみで始まった「フェルマーの料理」というアニメを見ていたら、そこにこの「米田肇」という人物が、かすかなエピソードのように紹介されたのだ。そこで、この本を知ったというわけだ。
因みに、アニメは2025年に放送されたが、実写ドラマとして、2023年に放送されていたことは知らなかった。このとき、主人公の北田岳は、高橋文哉が初主演を果たしている。高橋文哉は、2025年のいわゆる朝ドラ「あんぱん」で健ちゃんという重要な役を演じている。
さて、米田肇さんは三つ星シェフとなる。しかし、その成長期に於いては、料理について天才肌であった、というふうではなかったことが、本書から分かる。親が料理人であるとか、高級料理店に出入りしていたとか、そういう背景はない。ただ、子どもながらにたとえばパスタを作ってみたときにも、レシピを見てその通りにつくるというのではなく、自分で納得がいくようにこしらえた、というのが普通でなかったであろうか。
著者は、ただ生涯を辿るだけではなく、何気ない行動にも、何かしら意味を見出そうとしているように見える。この米田少年の、どうということのないような性格にも、「自分で考える人間」という、特殊なタイプを見出している。そして、小学五年生のときの作文「ぼくの、将来の夢」を大きく位置づける。その作文は、「いちりゅうの料理人」になりたい、という言葉で締め括られていたのである。
米田肇さんは、数学者ではない。だが、数学に於いて秀才だったことが伝えられており、一度はエンジニアとして人生を歩み始めようとしたこともあるという。温度の0.1度の違いや、塩の粒の並べる数などが、料理に与える印象をまるで変えてしまうということを知ることや、そのための学びを克明にノートに記録する様子など、「フェルマーの料理」と何かつながるところがあるような気がした。というよりも、そもそもこの連載マンガ自体が、米田肇さんの監修に基づく、と聞いている。ドアノブの温度にも気を配るということは、本書の初めにも紹介されるが、そういうエピソードも、物語に取り入れられていた。
フランス料理に感銘を受けて、そのシェフになるのだ、という夢を懐き、金も潰しながらフランスに留学する。そこで三つ星料理店にどのような入り、どんな扱いを受けたか、またスパイ視されてあわや強制送還させられそうになる中で、地位ある人との出会いにより助かったことなど、米田肇さん自身の人生は、それだけで十分物語になり得るものであった。
日本に戻り、1年半も店探しに放浪し、貯金も尽き果てる中で、どのようにそれを大阪に見出したか、その苦労話も細かく記されていて、しかもそれを適切に伝えてくれる辺り、ライターとしての著者の力量たるや、驚くべきものがある。沢山の情報が、さらさらと読むだけですうっと読む者の心に入ってゆくのだ。気がつくと、他の本よりもずいぶんと速いペースで頁がめくられているのを感じた。しかも、内容もよく理解できるし、ところどころ食文化に対する批判的な意見も混じっていることを覚えながら、考えさせられるなあと感動しつつ、読み進めることができていたのである。
日本での店がたちまち評判になった――などということはない。殆ど素人のような人たちを雇い、料理は1人でする、睡眠時間が、よくぞそれで生きていると思われるほど少ない日々が続いていた。料理については天才であっても、経営については素人であった米田さんであったが、それの勉強にも手を抜かなかったのだ。
その苦労話も、一つひとつ描かれている。ただ、開業後1年半を待たずして、ミシュランの三つ星を獲得する。37歳のときのことであった。青天の霹靂であるが、このミシュランの評価については、それと知られない形で調査員が店を訪れることによって決められる。しかし、あれはもしや、と米田さんは見抜いていたらしい。
こうして、店は大変な人気を呼ぶ。単行本の『三つ星レストランの作り方』というタイトルは、この栄誉に基づいている。だが、その本が出るか出ないかのときに、次のミシュランには、二つ星の評価になった。そもそも二つ星が与えられるだけ、ものすごいことであるのに、世間はこれで、背を向けるようにもなった、ということなどが、その後にできた本書には記されている。
そして、2011年の東日本大震災でのことも、ここには書かれている。高級フランス料理が何の役に立つのか。米田シェフは悩む。そして、被災地の方たちのために料理を食べてもらうプロジェクトに参加する。食べることが、人に勇気と元気を与えることを教えられ、再び力を与えられたようである。
店が成功したときのことだが、本書にひとつ、他の面に大きく適用できる指摘があった。少し長いが、その段落を引用する。「誰かが成功すると、その成功を憎み嫉む人がいる。哲学者のキルケゴールはその感情をルサンチマンと呼んだ。弱者の強者に対する憎悪だ。インターネット時代になって、そのルサンチマンは書き込みという手段できわめて簡単に発散されるようになった。発散するのは簡単だが、それを受ける側がどれだけ深く傷つくかは経験しないとわからない。それを有名税だと言う人もいるけれど、それが原因で人間不信に陥った有名人は少なくない。」(p290)
本書のエピグラフ(題辞)には、修行したフランスの店でかけられた言葉が掲げられている。「これで完璧だと思ったら、それはもう完璧ではない。この世に完璧というものはない。ただ完璧を追い求める姿勢だけがあるんだよ」――これが、米田肇さんを支え、導いてきた。
中を読まないと意味が分からないが、料理の写真も初めに少し載せられている。106種類の野菜を使った料理であり、物語の重要な場所で登場する。基本的に、物語を読んでから、写真を堪能したらよいと思う。芸術系の才能もあり、一時は絵を描いて収入を得ていたというだけあって、見事な視覚的な味わいがそこにあるように思う。
フランス料理には無縁の私だが、感銘を受けた。心に残る本となった。

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