本

『天路歴程正篇・続篇』

ホンとの本

『天路歴程正篇・続篇』
バニヤン
池谷敏雄訳
新教出版社
各\1800+
1976.11.;1985.4.

 聖書に次いでよく読まれている、という肩書きの本は何種類かある。正確な統計に基づいた表現ではないと思われるが、それは逆に、聖書がナンバーワンだということについては、異論がないためだと思われる。
 その第2位にも掲げられることがあるのが、このバニヤンの『天路歴程』である。
 17世紀にジョン・バニヤンによって著された。ずいぶん昔に一読したことがあったと思うが、それは教会図書を借りて急ぎ読んだものだったはずだ。ここへきて、もう一度目を通したいと思い、手許に取り寄せた。
 訳そのものもかつてのままだし、その後アレンジされて他の訳で出版されたという話も聞かない。さらに古い岩波文庫のものと、子ども向けのダイジェスト版があるようだ。
 主人公はまず「クリスチャン」と訳されているものもあるが、本書では「基督者」である。登場人物の言葉が、戯曲のように書かれている部分が多く、そこに置くことを考慮してであろうと思われるが、登場人物名は概ね3文字以内になるように設定しているようだ。
 筋書きは、神の国への巡礼に出ることを思い立ち、基督者が旅するが、途中で様々な出会いと困難とがあり、ついに天国へ着くというストーリーである。信仰の教訓となっているに違いないし、真面目なキリスト者にとっては、信仰の戦いはかくあるもの、とハラハラしながら読み進むであろうし、大団円にほっとすることだろう。
 いまのは正篇だが、続編では、基督者に置いて出て行かれた妻の基督女が、子どもたちを連れて後を追うように旅に出る。正篇の好評に乗って記すと、今度は評判が落ちることがあると訳者は評し、事実見劣りがするであろうことは認めるものの、実のところ続篇ならではの魅力があることを、続篇の「あとがき」に記していた。
 しかし「はしがき」は、正篇の方が優れている。正しくは「はしがき」に続く「解説」が、バニヤン個人についてと物語の背景についてなどを、簡潔でありながらも、深く説明しているからである。「要するに、『天路歴程』は類まれな鋭い良心を持った一つの魂が、唯一の真実なるもの、永遠なるもの、聖なるものを求めて、苦しみ悩み迷い戦って、ついにその志すものに達し得た行程の忠実な報告であると共に、深い洞察力で見抜いた人間のありのままの生活と性格の記録である。」と書かれた文で、たぶん十分であろう。
 さて、バニヤンは1628年に生まれ、貧しいながらも少し学校に通うが、若くして働いたらしい。そこはイングランド中部地方は、ピルグリム・ファーザーズを最も多く出した土地であるという。ジョンはそこから宗教的な影響を受け、十歳に至るまでごろに罪の自覚に苦しめられ、恐怖の念に襲われたのだという。訳者はそれについてのエピソードを交えながら、二十歳そこそこで結婚に至り、妻のもっていた宗教書に、天路歴程のモチーフになるような体験をする。自暴自棄になったこともあったが、そこから逆に聖書と祈りに励むようになったのだという。信仰というものを真剣に意識し、苦悩の経験をする。訳者はそこに、ピューリタニズムとカルヴァン主義の精神を見ている。
 ジョンは新たに生まれ変わる経験に達し、教会の執事、それから説教者となった。だがそれで万事よくなるわけでもない。国教徒にあらざる者への迫害が増し、それなのに説教したということで投獄される。ジョンは人に従うよりは神に従うことを決意し、法的な害を受けたり嘲笑を受けたりしながらも、信仰はさらに強くなってゆくのだった。牢獄生活の故に却って著作ができる時間が与えられ、本を書くようになった。時にチャールズ2世とルイ14世との政治的な取り決めにより、信仰の自由について緩和政策が行われ、ジョンは出獄する。このとき、人々はジョン・バニヤンの説教を待っていた。その後も迫害が再び起こるなどの過程を経て、そのときの牢獄に於いて、この『天路歴程』の構想が与えられたのだという。
 いささか訳者に頼りすぎた説明ではあったが、本作の魅力を、背景から支える情報となったであろうか。この解説にはまだまだ魅力的なことがたくさん記されている。いまから350年ほど以前に生まれた物語であるが、信仰するという世界に於いては、決して古びたものとはならない。悪徳や美徳がすべて擬人化され、物語の中でひとつの個性として演じきる。現代風に言えば、アドベンチャーゲームを見つめるかのようにすら思えてくる。
 現代人が、信仰の点で彼らに勝るようにはとても思えない。しかしまた、彼らも悩んでいた。バニヤン自身の悩みや苦しみが、この物語にふんだんに描かれているものだとすれば、神は一人の人間に、これほどの試練を与えたのだ。私たちも、その試練に真摯に向き合わなければならないだろう。困難を、分かったふりして斜に構えてやり過ごしているというのは、決して進歩的な在り方ではない。むしろ退歩である。そのことに、気づかされるためには、こうしたかつての人の体験に基づく物語を味わうべきであろう。




Takapan
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