本

『手の倫理』

ホンとの本

『手の倫理』
伊藤亜紗
講談社選書メチエ735
\1600+
2020.10.

 専ら手に注目する。斬新な試みであり、必要な思索である。入口は非常に身近なところから分かりすく示す。「さわる」と「ふれる」の言葉の使い分け、あるいはその語感を問うのである。恐らく日本人ならば、前者に直接的で具体的な接触、後者に間接的で精神的な交わりのようなものを感じるのではないだろうか。後者のほうが好ましいという捉え方が多いような気がする。
 これを筆者は、一方的であることと、相互的であることとで理解する。「序」においてそのような辺りから始め、この研究に至る過程を紹介する。それはたいへん具体的な道であった。この具体的ということが、「手」を考察するためには非常に大切なことである。手はある意味で即物的である。接触の感覚が伴うし、皮膚感覚を想起させる。
 新型コロナウイルスによる感染症が2020年の地球全体を襲った。それは、「さわる」ことを禁とし、距離を置くことを人々に求めさせた。その接触禁止は、果たして「ふれる」ことまで禁じたことになるのだろうか。筆者は明らかにこの「ふれる」ことに価値を見出しており、それを明確にすることで、大切なものとしてまた後世に伝えていかなければならないと考えている。このコロナウイルスによる禍の中で、新たな「手」を通じての優れた思索が世に示されることとなった。
 本書は、まず「手」ではなく、「倫理」のほうに注目する。「倫理」と「道徳」とはどう違うのだろうか。明確な定義は難しいけれども、「道徳」については一種の原理や法則という観点との結びつきがありうるけれども、倫理はそうではないという。命題的に定まる道徳に対して、倫理はその現場により適用することが考察されるはずのものだと捉える。つまり、倫理を考える場合、どうすればよいか、どちらがよいのか、悩んでよい、というのである。
 このようにして具体的な情況の中で考えることの必要性を告げたとき、筆者はひとつの警告を与える。「多様性」という言葉についてだ。多様性が善であるとしてキャンペーンめいたものが展開されているような世の中である。だが、「多様性」という看板を掲げたことは、それが道徳となっており、それに従わねばならないものになっている。しかしそれが現実には、分断を生んでいる、と指摘する。迷ってよいはずの倫理の出来事であることが望ましい「多様性」が、決めつけを行っている。多様性というスローガンを背後に、他人に不干渉であることを是とするときに、互いを尊重しつつ強調していく道を探る道を塞いでしまう、という不快感を表しているのである。その詳細はこれ以上は取り上げない。続きは本書をお読み戴きたい。私はこの考えに共感する。というより、私の考えていたことを表してくれた、と歓迎している。
 最初でこれだけ熱くなってしまった。軽く走ろう。著者は、本題の「触覚」について哲学思想を概観し、西洋哲学が「さわる」ことしか捉えて考えていないことを指摘する。しかし私たちは「ふれる」ことへと迫っていく。
 この「ふれる」ことには、「信頼」が伴わなければならない。「にもかかわらず」「信じる」、そこに「信頼」があるというのである。
 著者は、目の見えない人がどう世界を見ているか、そんな様々な感覚について思索を深めてきている。専門は美学であり、現代アートを論じているのだが、この人間の感覚ということについて深く考え、またまさに人々と「ふれあい」、体験談をも集めている。本書にも随所で、そうした実際の人の感じ方や体験が紹介されているのが、説得力を増す。決して、形而上学を展開しているのではないのだ。
 さらに「さわる」と「ふれる」を分析するにあたり、著者は「コミュニケーション」というフィールドで検討する。すると、単純に「ふれる」がよいのだ、とはいかなくなる場面に遭遇する。「ふれる」が進むべきところまで進んでいくと、「さわる」ことになるケースを見出す。どうしても他者としてそこにいる者同士が、違いを超えて出会うために、「さわる」シーンがありうるというのである。死体であったり、介護の現場であったり、私たちは簡単に済ませられないところを経験することがあるのだろう。
 そして次に始まる「共鳴」という章が、私には非常に大きなものとして見えた。視覚障害者のマラソン競技には、伴走者が必要となるが、伴走者とランナーとをつなぐものは何かというと、輪の形にしたロープなのだという。並んだ振り子のうちひとつを揺らすと、他の振り子も動くようになる。音の場合はU字の金属に共鳴箱がつくと共鳴する。そのひとつの輪を互いに握っているとき、恐ろしいほど相手の動きが、時に心理まで分かるのだという。私はここに、キリスト信仰のとても大切な意味を教えてもらった気がしたが、いまはそれをだらだら記す場ではないので割愛する。
 最後には、坂部恵氏の分析をヒントとして、「ふれる」ことが自分を根底から揺さぶるものを含んでおり、だからそこに、迷うことを認める「倫理」の領域が待っていると考えるような章があった。触覚は、ただ視覚だけの接触とは違う決定的なものを含んでいる。ここにあるのは、ただの一方的な伝達という意味でのコミュニケーションではない。互いに何か新たなものを造り上げる方向で働いていくものである。スポーツにしても、見ていることでいろいろ分かった気になることがあるが、とんでもないという。ふれてこその場面は、ただ見るのとは完全に違うのだそうだ。いわば、視覚的にだけ捉えようとしていると、道徳のような定義めいた行動基準が定められ得るかもしれないが、具体的にそのところで感じとり迷い悩みながらも選び取っていく触覚に関わる場面では、まさにそれが倫理として、私たちが真摯に問いかけるべきものとなるというのである。
 人と人との多様性がそこで問題になるのではない。迷うことひとつとっても、自分の中には無限の多様性がある。自分そのものが、何かに具体的にふれられることで、別のものとなり、多様な自分を示すことになるかもしれない。これを自覚することにより、他者とふれあい、交わり、理解し合い、認め合えるような、倫理の場面が開けてくるのではないかというように、著者は考えているように思われる。
 そして私はさらに、それが平和の本質的な意味なのだ、というところにまで、「手」を伸ばそうと思う。




Takapan
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