本

『手のひらの京』

ホンとの本

『手のひらの京』
綿矢りさ
新潮社
\1400+
2016.9.

 単行本で220頁は、中編と呼べるだろうか。本作ひとつのみから成る本である。地元京都を描く作者の筆は落ち着いている。大阪を舞台に谷崎潤一郎が描いた『細雪』は四姉妹を描いたが、本作は三姉妹が京都に生きる。それぞれの人生のターニングポイントを経験するのが同時期となる中で、それぞれの生き方や考え方をよく描いている。
 しっとりとした、京(みやこ)の、どこかありふれた三姉妹のぶつかる壁、乗り越えるべき壁というものがここにある。
 帯の説明を借りると、「おっとりした長女・彩香」「恋愛に生きる次女・羽衣」「自ら人生を切り拓く三女・凜」と形容され、これを頭に置いておくと、読者は読みやすいだろうと思う。私もそうさせてもらった。
 京都の風景を、少しまどろっこしいばかりに描きつつ、まず凜と綾香の食生活のシーンが出てくる。これも不必要なほどに細かな描写が続くが、これは映画になると実によいスタートとなることだろう。食生活というのは、当人たちの生活スタイルを、ストレートに伝えるものだからだ。さらに、この食事の経緯が、父親の定年退職と共に母親が、主婦業を退職しますと宣言したことによって、姉妹が分担して食事をつくることになった、というから面白い。
 さて、綾香の抱える問題は、結婚。殊更に焦っているとまでは言えないまでも、よい出会いに恵まれず、現在31歳。いまではさほど珍しくないのではあるが、友だちが家庭をもってゆくことに、何か隙間風を感じるのは確かだ。図書館で勤務しつつも、どこか姉妹の長としての立場から、自分の幸せに走るという冒険ができない。途中で、次女の羽衣と同じ会社の実直な男性と、殆どお見合いのような付き合い方を始めることになる。
 その次女は、奔放で強気なところがある。職場の上司と、数回のデートをしただけ程度のお付き合いをしたが、そのことで周りの女子社員とも折り合いが悪く、やがてそのお付き合いをお断りしたところ、その相手が実に執拗に、ストーカーまがいのことを始める。この陰湿さ、読んでいて本当に腹が立つほどであったが、そう思わせるということは、作者の腕が立った、ということになるだろうと思う。別の社員とフランクなお付き合いができるが、そこへかの上司が、実にいやらしく絡んでくる。さて、羽衣の恋愛はどうなるのか。
 凜は、大学院でバイオ関係の研究を続けている。そこへ、東京の菓子メーカーへの就職の道が開けそうになる。それは夢のようなことだったが、父親は、生まれ育った京都から離れて欲しくない。凜は大丈夫だと説得しようとするが、どうにも話が発展することができない。そういう進路のと家族という悩みを抱えていることになる。
 人物が、こうした人々の域を殆ど超えることがないために、人物関係で混乱することなく、読者はそれぞれの思いに入り込むことができると言える。
 綿矢りさは、不思議なタイトルの種明かしのようなことを、話のどこかで示すのが通例だ。本書も、一箇所あった。ネタばらしを覚悟でその辺りを引用させて戴こう。「なんて小さな都だろう。まるで川に浮いていたのを手のひらでそっと掬いあげたかのような、低い山々に囲まれた私の京(みやこ)。……私はここが好きだけど、いつか出て行かなきゃならない。……」もちろん、誰の心情かはお分かりかと思う。三女の凜である。となると、この物語の中で、凜は分量的には他の二人より少ない登場のように見えながら、この物語を最も大きく支えている、ということになるだろうか。  それぞれ別々の形で、三人は新しい歩みを始める。顔を挙げて見える景色から、光が射し込んでくるような爽やかさが後味に残る。
 ただ、私としては、「掌」という漢字かあるからには、「手のひら」という表現を私はとりたくないのだが、恐らくやわらかなひらがなの感覚と、ここにある「手」が未来を掴むようなイメージとが、結びつく場をつくったのではないか。だから「都」もだめだし、「京都」もだめだ。「京」と書いて「みやこ」と読ませるのがいい。
 ただ、何の意図があっては分からないが、「大文字焼き」と説明しているところ(p76,79)があって、戸惑った。京都の地元の人で、「大文字焼き」などという言葉を使う人に、私は出会ったことがない。北部の福知山では「大文字焼き」と言うが、京都はもちろん「送り火」である。
 博多祇園「やまがさ」と耳にしたような違和感にぞわぞわとしてしまったのだが、京都は最近、そんなふうになったのだろうか。




Takapan
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