本

『天文学の誕生』

ホンとの本

『天文学の誕生』
三村太郎
岩波科学ライブラリー173
\1260
2010.8.

 これだけのタイトルだと、ありがちな本だと思われる可能性が高い。しかし、この本は違う。サブタイトルに「イスラーム文化の役割」とある。ここである。天動説から地動説という移行は、従来ヨーロッパ文明の内部でのみ、語られてきた。下手をすると、宗教を批判するために取り沙汰されることさえあった。しかし、この本は、そこに、イスラームの関わりを見る。殆どその事情の説明に終始する。
 驚くことに、こうした観点から天文学を説いた本は、日本はもちろんのこと、欧米にも見られないのだという。
 バビロニアやギリシアの知恵を、イスラームが取り入れ、天文学を占星術として、つまり吉凶の目安として採用することがどのように必要であったか、しかしまた、それがたんなる政治的目的に留まらず、論証科学へと展開していったか、その辺りの事情が、この本で検討されている。
 プトレマイオスの『アルマゲスト』が愚かにも天動説を唱えた、などという単純な見方をしているような人が、もしかすると一般には多いかもしれない。だが、この本の理解は、たとえば私のような者には無理である。論理的な説明をするために、実に高度な数学的処理をし、工夫を凝らした発想を施してある。それは、プトレマイオス以降の人類にとってもそのようであったらしい。とくに、それを如何に論証するべきかということについては、そもそもその論証という方法の認識と確定を基準とするためにも、パラダイムの変換のような思考の転換が必要だったのである。
 著者は、その思考過程の中に、イスラーム文化の影響が不可分であったとしている。確かに、ヨーロッパ文明は、科学の分野などではイスラームに大きく遅れた時代があった。キリスト教神学の徹底のためには、科学的認識は、一定の目的の下に置かれたのである。事情はイスラームでも決して違うものではなかったかもしれないが、そちらでは、科学的な成果が大いに活用された。古代ギリシアの文化が発掘され保たれていたのはイスラーム文化圏であったことは常識である。
 この本は、途中から、イスラーム世界の歴史とそこにおける天文学の計算や論証の歴史に完全に切り替わる。天文学の切り換えのために、イスラームにおける論証科学の成立が不可欠であったと考えているからであろう。ところがしばし、これは単なる宗教思想の歴史の本ではないかと思われるほどの記述になっている。宗教思想的にもなかなか興味深い部分である。
 考えてみれば、やはりイスラームの文明への影響は、私たち日本人にとっても、見過ごされている部分である。歴史は欧米中心であり、オセアニアやアフリカについても付随的でしかないのだが、イスラーム圏についても、あまりにも外からぼうっと眺めているに過ぎない。その文化については教育を受けていないに等しい。しかし、世界はそのようにイスラーム文化を切り離して成り立っているわけでもないだろうし、互いの理解や平和につながる道を閉ざしていいわけがない。そこから誤解や偏見も混じり、対立が起こり消えないとすれば、イスラームへの理解は、世界的にも必要不可欠であると言わざるをえない。
 著者の試みは、まだ始まったばかりである。読者たる私たちに投げかけられた課題を、私たちは受けとめてこれからどうするかを考えなければならない。たとえば今私は、聖書をアラビア文化の視点を踏まえて読むという試みを楽しんでいる。ヨーロッパの生活ではなく、中東の生活の視点から聖書の記述を捉えたときに、私たちがいかにヨーロッパ的偏見の中で思い込みをなしていたかを感ずることがあるのである。この本が天文学において教えてくれているのは、基本的にはそういうふうなことではないか、とも思う。




Takapan
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