本

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

ホンとの本

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
村上春樹
文春文庫
\730+
2015.12.

 単行本は2013年。もちろん知っていたが、その時には彼の作品をまともに読んだことがなく、関心も薄かった。それで後になって読んだという具合だ。
 タイトルの長さも、一つひとつが意味があるので、読後ににやりとすればいい。
 そしてこの作品は、かなり分かりやすい流れだった。別の長編だと、あっちこっちに視点が移り、エピソードがふんだんにある割には、そのエピソードが収束せずばらばらのままに置き去りにされたまま、という印象をもつことがあったが、本作は筋道が基本的に一つである。いや、灰田青年のことが実は宙ぶらりんになっているような気がして、落ち着かないと言えば落ち着かないのであるが、本筋を強く響かせる役割があったといえばあったので、さほど気にならないだろうとも思う。
 テーマははっきりしている。まず、死ぬしかないとまで追い詰められた二十歳の多崎つくるが登場する。しかし36歳のいまの多崎つくると微妙に交差しながら、16年間のブランクはそれなりに埋まっていく。
 高校時代の仲良し五人組。多崎つくるはその一人であったが、高校卒業後愛知に残った4人とは違って、鉄道の仕事をしたい夢をもって1人東京に行ったことがひとつの鍵になった。しばらくは帰省ごとに会って楽しくやっていたのだが、ある時4人が突然よそよそしくなる。冷たく絶交され、口さえきいてくれない。唯一答えてくれたアオは、自分の胸に聞いてみろとつくるに言うが、つくるは全く覚えがない。
 いまアオと言ったが、この五人組は、他にアカ、シロ、クロという色を苗字の一部にもつ4人と、つくるだけがその色をもたなかったことが、冗談のようではあったが、気にはなっていたという。そのつくるが、仲間と縁を切られたのである。
 つくるはいま、2つ年上の沙羅という女性と交際している。恋人という存在ではないが、何でも話せるし、関係ももつにはもった。沙羅は、つくるの中に何かひっかかっているものがあると指摘し、つくるは五人組の話を打ち明ける。すると沙羅は、つくるにこの問題を解決するために、一人ひとりに会いに行き、話をしてくるべきだとアドバイスする。
 こうして、多崎つくるの巡礼の旅が始まるというわけである。
 この「巡礼の年」という言葉は、この小説の中で印象的に流れる、リストのピアノ独奏曲集のタイトルである。読者は、題にあるものだから、当然物語の中でこの曲が出てくると、何か意味があると身構えるであろう。但し、話を読んできた人は、この友だちを訪ねる度で自分の過去の問題をはっきりさせる巡礼をするのだということは、容易に分かるから、特別謎めいているわけでもない。
 ここまでは、ネタバレというよりは物語の魅力を伝えるくらいのものとして許されるのではないかと考えて記述した。さすがにここから先は書いてしまうわけにはゆかない。
 この他に先に触れた灰田という後輩が大学にいて、友だちらしい友だちとなるのだが、奇妙なその父親の体験の話を聞き、奇妙な夢か幻覚を見た後に、突然去って行ってしまう。つくるは、自分の幻覚が原因であるのか、という可能性をも考えるのだが、この点、小説の最終部分あたりで、関わってくるとも言える。
 私たちは、直接自分が手を出さないことについては、責任がないと考える。それが健全な社会生活を送るために必要な精神安定剤である。なにもかもを自分のせいだなどと背負い込むのは不健全である。しかし、本当にそれでよいのだろうか。たとえば私たちは、心の中で人を殺すことを考えたとしたら、それはその人を殺したことになりはしないだろうか。まるで新約聖書のようなテーマになるかもしれないが、巡礼というテーマからして不思議ではない。しかし、これを軸にしているとは言えない。
 それよりもリストのその「巡礼の年」だが、特にその中の「ル・マル・デュ・ペイ」がつくるにとり中心にくる曲であるのだが、これについてWikipediaでは「『オーベルマン』からの長大な引用が序文として掲げられている。「自分の唯一の死に場所こそアルプスである」とパリから友人に書き綴ったオーベルマンが抱いた望郷の念を音楽で表現している」との説明がなされている。望郷という点では重なるところもあるが、さて、そこに謎はあるのだろうか。ほかにもこの曲集には「物思いに沈む人」や「哀歌」「葬送行進曲」などがあり、暗示的でもあるような気はする。そして終曲として「心を高めよ」がある。こうしたことは読後に調べたものだが、ここに希望を見出したいものだと私は強く感じた。だから、暗い部分も多い小説ではあるが、読後感はむしろ爽やかである。そして、最後はどうなっんだろう、という部分を描かずに、読者の心に結論を任せるところは、悔しいけれども粋でいい。でも村上春樹自身は、この結論はどちらになるのか、内心決めていたのかなあ、という好奇心は湧く。
 なお、この小説の記述視点の面白さも付け加えておく。村上春樹は初期に於いては「僕」の視点で綴り通すものばかりで(違うのがあるかもしれない)、その人物になりきれば非常に読みやすいものだった。こちらでは多崎つくるは、という形で三人称、あるいは神の視点に立って記述が進んでいく。が、専ら小説の視点はつくる自身からなのである。つまり、すべてを「僕」にしても何の違和感もない記述となっており、三人称にする必然性は何もない。つまり客観的に多崎つくるを描いているというのが見かけの現象なのであるが、実際はつくるの内面を、全て「僕」であるかのように綴っていく。これは落ち着いて考えてみればおかしいものである。外からつくるを描いているようで、ひたすらつくるの内面を呟いていく。しかし、殆ど不自然さを感じさせないのは、読者がいつしかつくるに同化していくからであろうか。一種のサスペンスのように、謎解きに心が奪われると、このような構成など全く気にならなくなる。この不思議な魅力を私は強く感じたのだが、あまり世間の人はそんなことには注目していないように見える。つまりは私の見方は間違っているのかもしれない。




Takapan
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