本

『立ちつくす神』

ホンとの本

『立ちつくす神』
E.シュヴァイツァー
青野太潮訳
ヨルダン社
\1800
1983.1.

 日本に立ち寄られたときに大学や教会で語られた、説教と講演集だということが副題からも窺えたので、入手が後回しになった。この時代で1頁10円は、なかなか高価だったと言えるだろうが、講演集ならあたりさわりのないところで語られて終わりなのかもしれない、というくらいに甘く見ていたのだ。
 この度機会があって入手した。驚いた。なんと質の高い、そしてすぐれた眼差しに満ちた宝物なのだろう、と気づかされた。これはもったいないことをこれまでしていたものだ。もっと早く読めば早く喜びに出会えたものを。
 もちろん、確かにこれは講演のように語られたものであって、厳密な考察の跡を辿るという性質のものではない。文献や出典にしても不明である。しかし、必要ならこのテーマでの論文もあるそうだから、しっかりした裏打ちのある内容であることはもちろん分かる。そのような案内も巻末に提示されているので親切である。が、ともかくこれだけの説教と講演だけで、私は満腹する。誠実な読みやすい訳にも助けられる。
 後半の講演は、復活のテーマによるものと、聖霊を多岐にわたって論ずるものとが目立ち、どちらも示唆に富むものであった。論者の信仰もそこに現れていたし、しかしまた、聖書を縦横に語り尽くす醍醐味もあった。たとえば「復活とは、この地上におけるよりも何百倍もすぐれた形におけるコミュニケーションが、神との間にそして人々との間になされる、そのようなところへと映されてゆくことを意味している」(63頁)故に、復活は個人的な幸福を意味するものではない、と語られる。地上の教会の尊厳をこのようにダイナミックに語るということは、私もやってみたいと憧れるものである。そして、実のところ「幸福」を語るメッセージというものが、意外と少ない。それは「イエスにあって今神が彼女(ここではマルタを指す)のところに来られているのを見るかどうか」(67頁)を、聖書の読み方のひとつのポイントに置いているところにも窺える。私たちが、いえ私が、間違いを犯したとしても、「神は常にそこに立ってくださって、私がそこを通り抜けられるように助けてくださった」(71頁)ところを知るかどうか、そこにいのちの成就がかかっているように促してくれる。
 聖霊については、私たち人間の側がいつの間にか神を従えて神の霊を手なずけるように取り扱う罠に注意させつつ、いくつかのポイントを挙げ、私たちがゆるされている立場であるという、考えてみれば当たり前のことを重視させる。外なる神が、私の内で真実となる。聖霊の体験は、これがひとつの事実であることに目覚めさせる。特にまた、ルカの観点に集中することによって、また新たに見えてくるものがあるから面白い。四福音書をバランスよく八方美人的に読んだところで、実は何の理解もできず、神との対話が成り立つこともないのだ。ルカの出会ったイエスとの出会い方を体験させて戴く、よい機会となった。それはまた、パウロやヨハネについてもその道が紹介され、実に厚みのある講演となっている。
 最後に牧会に関してのセミナー講演が掲載されている。これは牧師相手である。そこには、イエスが教義をドグマ化しようとはしなかったこと、そして人が自分自身の解答を見出すための助けをなせばよいこと、そのためたとえ話のようなものは、一義に説くのではなく、それを各人が自分の内側で神と出会い、聖霊の作用を受けるところからすべてが始まるのだという件(164-166頁)は、私の中にもやもやとしていた情景を、ひじょうにクリアに映し出してくれたとして捉えることができた。福音は、一定の条件をパスして昇っていく階段のようなものではあるまい。しかしまた、誰でもどのようであってもよいという奔放なものでもないだろう。だから福音は、何かしらの鍵は欠かせないものの、神を神としてあがめる魂には、それぞれの仕方で届き、生かすのである。
 本書のタイトルがオシャレである。シュヴァイツァー氏自身は「無力な神の全能」というテーマであるかと理解してその路線で出版するべきかと訳者が相談すると、「無力者の全能」のほうがよいかという話になったという経緯が記されている。この方向でタイトルをまた考えたのだが、ヨルダン社側からの提案に基づき、「立ちつくす神」のタイトルに決定したのだと、詳しく明らかにされている。私は、これでよかったのではないかと感じている。若干情緒的な響きになったかもしれないが、現代の神学の中で人間の側がずいぶんと偉くなってしまった現状で、しかしそこで立ちつくしているのは紛れもなくほかならぬ「神」であることを、実はアピールしているのではないかという気がする。ただ、とにかく一冊まるごと、あたたかな本である。励まされ、心も豊かになる。
 アメリカナイズされると、もっと生活の風景が描かれ、そこに神を見出すものなのかもしれないが、本書はずばりと聖書そのものから斬り込む。そのため、生活への適応のような具体的な場面は描かれないと言えるが、それは、読者たる私、そして皆さんが描き出す絵となるのではないか。また、そうすべきではないのか。そのための勇気を本書からもらえることは、保証してよい。




Takapan
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