『たちどまって考える』
ヤマザキマリ
中公新書ラクレ699
\840+
2020.9.
実は、以前から読みたいと思っていたが、機会を逸して、ふと見かけたときに、これはやはり読みたい、と手に取った。発行から5年半も経ってからである。
当然、時期が違う。本書は、コロナ禍の当初に書かれた。イタリアで暮らす著者が、日本に来ていたが、パンデミックの中で、イタリアの家族のところに帰れなくなってしまった。そこで「考えた」というのである。
そういうわけで、これはパンデミックの最中、まだ先行きが見えない中で綴った、感染症に対する考えに始まる、文化論であり、人と国の行き方を考える本である。
結果的に感想を言えば、私たちが人や社会を考えるヒントがふんだんにある、よい導きになるであろう、そういう本だと思う。著者の経験からの話が多いので、共感できない人にとっては邪魔な議論に聞こえるかもしれない。それならそれで、著者の捉えたものをまな板の上に挙げて、考察し、また議論すればよいと思う。一蹴するような内容はひとつもない。真面目にその問題を取り上げて然るべきだと考える。
もしかするともう忘れているかもしれないが、イタリアは新型コロナウィルス感染症が拡がるとき、かなり早い時期に多くの犠牲者を出した。教会に棺が所狭しと並べられた映像は、ショッキングだった。
著者は、それは接触を生活の本質に置く文化、また大きな声で何事も議論し合う文化の故だった、という。あるいはまた、中国との強い接触のある地域の存在も大きかったという。恐らくイタリアからの情報も、そうした意見の中に含まれていたのだろう。
だが、それはまた、そういう文化を止めることのできない性質もあり、そういうことを受け容れるのもまた、彼らの文化であると分析する。また、中国から来たということであっても、それで中国を恨むとか、悪く言うとかいうこともなかった、と言っている。陸続きで何でも起こり得ることの承知と、そもそもこれまでの歴史が、様々な外敵からの侵入や支配の中で培われてきた経験とが、そういうこともあるのだという前提で考えさせていたのだとするのである。
日本では、当時の内閣が、そうしたイタリアなどの惨状と数値を比較して、奇蹟的に数字が抑えられている、と自負していた様を、著者は批判する。データの出し方に差異があることに加え、公表されたデータに対して疑う文化をもつイタリアと、お上の言うことに疑いを持たない日本とでは、比較にならない、と断ずる。
また、幾度かに分けて主張されていたが、こうした中で文化芸術を護ろうとしたヨーロッパに比べ、日本では、経済を回すためには文化芸術は不要だ、という空気があり、また政策的にもそうだった、と批判する。確かに文学は、いま目の前で戦乱が起きている中では、役に立たないだろう。だが、いくらかでも静観できる情況があるならば、人の心を護り、力を与えるものだ、ということを強調するのである。文化芸術を蔑ろにして、エコノミックアニマルよろしく、経済のみの優先で危機を乗り越えられると考えるようなことは、それこそ危険である、ということを盛んに論じていた。
文化芸術に公費は出せない、という本音を吐いた政治家もいたし、いま現在、採算の取れない美術館を閉館させようという動きもある。そうでなくても、文科系大学に対してはどんどん補助を減らしたり、できれば潰してゆこうと考えたりしているのが、この日本である。文化を軽んじる文明には、命がないのだ、ということを、著者は訴えようとしているのではないだろうか。
さらに、著者自身、「漫画家のくせに政治に意見するな」という圧力が、ウェブの場で起きていたことを挙げていた。同様のことは、「芸能人のくせに政治的発言をするな」という言葉の暴力が頻繁に起きていることからも分かる。基本的人権などということを持ち出すまでもなく、これが日本の精神風土の愚かさである。漫画家はマンガだけ描いていればいい。芸能人は歌って演技していればそれでいい。それ以上のことはするな。その程度の文化理解でしかないのである。
それはまた、大衆が手なずけた言いなりになる同調性だけを受け容れるけれども、異質な人を排除する体質をも表している。これはかなり深く、重い点に関する指摘であるから、恐らく本書だけで議論ができているとは言えないであろう。しかし、最初に申し上げたように、これを題材として議論するためには、十分な提言となっていると思う。
その他、著者は多少分散的にではあっても、たくさんの提言をしている。本書の内容を少しずつ取り上げたら、私も、論じて書くネタにはしばらく困ることがないだろう。ところが、こうした意見をすぐに一言で論破したつもりで潰しにかかる者が少なくない。そしてそれこそが、精神の貧困を露呈させていることになるわけで、著者の見方が勝っていることを証明することになるはずである。

た
か
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