本

『他者と生きる』

ホンとの本

『他者と生きる』
磯野真穂
集英社新書1098
\900+
2022.1.

 なにかと「他者」というキーワードには弱いので、手頃な値段で手に入る情況の中で、購入した。「リスク・病い・死をめぐる人類学」というサブタイトルが、もうひとつピンとこなかったので、最初はあまり期待していなかった。
 序論から入る。本書は、医学に焦点を当てているという。それで病いと死なのだ。著者のプロフィールにも、医療人類学という、見慣れない文字が入っているではないか。私は、この「医療人類学」という言葉に、まず惹かれた。
 そして学問が答えを出すことに、人生の問いは期待すべからずという宣言によって、もっと足が前進した。この人は、医学から斬り込みはする。だが、それで人生の問いをなんとかしようとしていない。それが「他者と生きる」という表題とどのように結びついていくのか、ぜひ辿ってみようと思うようにされた。
 というのは、著者の話の持ち運び方が心地よかったからだ。意見や立場をはっきりと明言する。読者の知らない実例や説明を、読者目線で丁寧に仕えるごとくに披露してくれる。そうなると、「リスク」などの言葉も、何かのつながりで、やがてその探りたい意味が教えてもらえるのではないか、という期待が、俄然出てくるのであった。
 医療は、自分の生命や身体のために、私たちの関心を呼ぶ。ところが、この情報過多な時代の中で、たんにそれが量的に多いというのみならず、質的にも、私たちの判断の信頼のおける根拠として君臨するようにさえなってきている。自分の感覚や昔人の知恵というものには、もはや何の価値もないほどである。そうして、インターネットで散見する情報にどっぷりと浸かり、自分自身の感覚というものを否定するような真似さえするようになる。得られる情報、信頼できる情報というのは、「三人称」なのである。著者は、そうではなく「一人称」の自分のことに差し戻すことへ、と自分の課題を見ているように感じる。別の言葉でいえば、当事者意識というものが、いま滅びようとしているのかもしれない、とも私は思う。
 面白いのは、こうした方面から話を始めておいて、次にしきりに「レトリック」を紹介することである。それも卑近な国語辞典あたりから引くのは、一般読者へのなかなかのサービスである。レトリックとなると、古代ギリシアを紹介しなければならなくなる。このレトリックとやらも、どうやら当事者意識を感じなくさせる能力があるものであるらしい。
 新型コロナウイルス感染症のために、医学的な報道が非常に多くなってきたといえるが、政府や首長か医療サイドであるか、そのすべてであるかもしれないけれど、言い回し、すなわちレトリックにより、ずいぶんと一般社会で誤解や思い込みが走ったことは事実であろう。医療現場の逼迫などという言葉では、現場の状況は伝えられないし、どこが危ないのか、と文句さえ出て来そうである。だが、救急車が現場から何時間も発進できないなどの事態を想像することもなく、病院で何時間待たせるつもりだ、とか、患者を放置するのはけしからん、とか、自噴本位で怒りをぶちまけたり、お門違いの非難をしたりするのは、相当の教養のある人でも簡単に陥る誤りであった。著者は、「集団の想像力だけが走り出す」という言葉を使って、情報をのみ信じて暴走する危険性を指摘していたように思う。
 だから、有名な芸能人の死の報道は、かなり世間にショックを与えたのである。本書はそのことについてもかなり力を入れて伝える。その件が、きっと伝わりやすいのだろう。庶民の眼差しに歩み寄って、心憎い段取りでもあると思う。そしてこの報道を「嬉々として」伝えることで、益々「自分の死」を見失っていったのではないか、と私も思った。
 情報を届ける側も、何かしら「思い込み」にはまっていることがある。そうした実例をも著者は含めつつ、統計学的人間観・個人主義的人間観・関係論的人間論という三つの人間観を取り上げ、「人とは何か」という、重要な関心事へと進むのである。
 なお、その前に、「自分らしさ」という点について、辛辣な批判を浴びせているので、ここが面白く読めるかどうかで、本書全体を楽しめるかどうかが区別できようかと思う。「本当の自分を求める」とか「自分らしく生きる」とかいう言葉が金科玉条のように掲げられて久しいが、そのような「自分らしさ」は、社会的な承認の上にしか成り立たないのだ、というような言い方をするのである。それは「自己責任論」を呼び、他者と共に生きることを忘れた「止めどない自分語り」をもたらす、などと吠えるのである。
 決して宗教を話題にはしていない。だが、著者は必ずしも宗教を見下しはしない。一気に信仰にまで行ってしまった人なら分かるだろうが、そうでないときには呑み込めないことだろう、というような見通しは立てているように感じた。もちろん哲学的な探究の仕方がそこにあるようには思うし、最後は「時間」を鍵にして、「他者」へと話が流れるのは、これまた心地よい。議論が時折支流に分かれるようなふうに見えることもあるが、ここへ流れ込みたかったのだ、という点は十分理解できる。
 人間を大きく取り上げ、突き放して見るならば、物理学的な時間の観点でよいだろうが、一人の人間に近づいて他者との関係を十分に彩るものがある世界で時間を見ることもできるのだ、というところに行き着くように見えた。それをもたらすのは、他者との出会いである。自分が変化を受ける体験をする、出会いである。著者の筆に力が入る。なんのことはない。これはイエス・キリストとの出会いにより新しい命が始まるということの、構造を説明しているようなものではないか。私だけの感じ方である。




Takapan
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