本

『「他者」の起源』

ホンとの本

『「他者」の起源』
トニ・モリスン
荒このみ訳・解説
集英社新書0985B
\920+
2019.7.

 100分de名著でフランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』のテキストを読んでいるとき、トニ・モリスンのことを知った。その本が紹介されていたのである。その物語にも関心をもったが、講演集があるというので、考えていることをまとめられているかと思い、探して手に入れた。それが本書である。
 トニ・モリスンは1993年に、アフリカ系アメリカ人として初めてノーベル文学賞を受賞している。
 黒人差別は、いまもアメリカでは現在進行形の問題である。もちろんかつてのあまりに酷い法律による差別は取り払われてはいるが、現状としてはおぞましいことが行われている。多民族国家としてのアメリカにおいてはそういうこともあろうか、などと言っている場合ではない。確かにアジア人に対する、あるいはヒスパニックに対する差別もあるのだろうが、黒人に対するほど激しいものかどうか、私も現場にいるわけではないので無責任なことは言えないが、やはり黒人問題は大きいものなのだろうと思う。
 差別をやめられない人間。人種の坩堝たるアメリカのみならず、日本にあってもそれはあると言わざるをえない。ジェンダーにおいては甚だしいものがあるわけだが、人種や民族についての思いを、年齢が高いほど依然としてもっていること、さらに若年層でもSNS上で放たれる発言からしても、悲しいものが多々ある。
 もちろん、当事者として本書が見ているのは、アメリカにおける黒人の立場である。それは、奴隷としての黒人の歴史から始まるが、それさえ奴隷物語という形で、どこか美しいものに変えられていやしないだろうか。
 差別は、そもそもがグループ化されたものとして決まった区別に基づくものではないのではないだろうか。その違いを差別へと構成するような、人が枠組みした文化の中の出来事ではないのか。「他者」として相手を捉えるがための「自己」という構図があるときに、白人文化が、黒人を「他者」として捉えることで自分を立てるしかなかったことを知る。そのとき、美しい文学という形にすることで、奴隷制度さえも肯定するものにしてきた過去を弁えなければならないのである。
 人は、何かの理屈をつけて差別を正当化しようともする。しかし、差別をすることになるのは、理屈や意識の上でのことではないのだろう。自分がどうしても正しいとしか思えない思想が、たまらなく差別感情に支配されているということがあるが、当の本人は、それが全く理解できない。自分のことを自分で知ることが究極的にはできないように、自分の中の、対象化できない核心のところで、差別する自分というものが存在しており、それを知ることができないのではないだろうか。自分が世界を見る見方のすべてを支配するその自分の中心たるものは、根強く、恰も自分自身の本質がそれでしかないような形で、残り続けるものであるようにさえ思う。
 自分は差別はしていないよ、と気軽に口にする人間ほど、信用できない者はない。自分は正義のつもりであるから、いっそう平気で差別を続ける。これは差別ではないのだ、という確信犯となるのである。
 アメリカの文学の様々な形で、あるいは自身が描いた作品において、いろいろな形で触れていく講演は、十分味わえる知識やセンスは私にはない。アメリカ社会の実感というものも分からないと言えば分からないので、黒人問題の切実さを、簡単に「分かる」などと言うことは控えたい。それは論評もできないし、意見を言うこともできないと考える。だから、せめて差別する構造のひとつを受け止めつつ、自分がどこまでも差別感情を懐きつつ生きているのだろうという罪業めいたものを感じながら、本書を前に腕組みをするほかないのではないかという気もしてきた。だがそれは絶望ではない。差別する者としての人間を知ることで、次にできることはあるかもしれない、という希望へと続く道が始まるのだと私は信じている。




Takapan
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