本

『「他者」へのまなざし』

ホンとの本

『「他者」へのまなざし』
INTERPRETATION84
聖公会出版
\2000+
2014.3.

 何冊か読ませて戴いたシリーズ。「自己」は哲学の大きなテーマであるし、これと「非自己」との境界を実践する「免疫」システムについて、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて関心をもつようになったことから、このタイトル「他者」もまた考察に値する重要なテーマであることを自覚したために、ひとつ取り寄せた次第である。
 もちろん、これは聖書を舞台にした考察である。従って、哲学的思考による探究とは異なり、聖書というテクストを背景にする。しかし、神と人との関係の中に成り立つ聖書というテクストは、人と人との関係にまつわる「他者」という現象についても必ずや大切な視点を提供してくれるものと期待した。それは、存在の原理からくるかもしれないし、世界という領域で異種の文化や民族に対して、どう接するかという問題をも含んでいるはずである。
 まずはカインとアベルの物語から。「アーバド」(働く・仕える)と「シャーマル」(守る・保つ)という言葉に注目し、弟の番人なのかと神に問うたカインのあり方を考えるものがあった。そこには、「土地」という重要な鍵が潜んでいた。これなしでただ人間同士の関係だけがここにあるのではないのだ。それは土地というものでなければならないのではない。ユダヤ人は、自分と神との関係だけを捉えないという。まず自分と他者がいて、その間に神がいるという捉え方をするのだという。その他者という存在が、人だけではなく、自然や土地にも適用される道を見出そうとする試みなのであった。
 それから「クシュ人」についての言及から、それは黒人といった人種へのひとつの差別的な視点に基づくものなのかどうかを、聖書の各言及から拾い集めることで、人種を聖書がどのように考えているか探ろうとするものがある。結論として、人種差別ではないというところに辿り着いたが、むしろそれは後世の解釈社が差別へともっていくことが懸念される。神が人種をつくりだしたのではなく、人間の偏見のほうを問わねばならないのだろう。
 パウロが外の世界へと宣教を見出すときに、神の業の必然を知るとともに、人間の側ではそれが驚きとなって感じられること、それを他者との出会いの中で感じるのだろうという救いについての考察もあった。教会はいま、自らが何もかもを知り尽くしたかのように、うまいこと説明ばかりをして、驚きのないようなあり方、つまり傲慢な態度をとっていやしないか、自省させられるものである。
 コロサイ書の3章の後半で、家族それぞれに投げかける言葉がある。この家族観は、決して現代私たちが懐くような家族観ではないだろうし、社会がこの家族をコントロールするようなことを悪とみなしがちな私たちの態度をそのままぶつけていくべきではないことを教えられる。かの時代、ギリシアやローマの文化の下での家族関係を反映しているように見える以上、その時の理解を大切に扱いたいものである。しかしそれは、キリストの支配に基づいて家族を理解していく可能性へと私たちを誘うものでもある。
 私たちは、自分の立つところから見える景色だけを唯一の真理とする危険性から解き放たれなければならない。しかし自分から見える景色を何もかも間違っているとする必要もない。いまここで私たちはどうすればよいのだろうか。ほかの可能性や価値観を参考にすることはできないのだろうか。常に迎える明日は、新しい時代である。私たちは過去を学ぶとき、過去から学ぶことをしてよいし、さらに聖書というテクストは、古きながらも新しいもの、未来をつくるものへと私たちの目を開かせてくれるに違いない。
 このシリーズ、後半の三分の一は、「テクストと説教の間」というコラムで、テクストに着目し、続いて説教に仕上がっていく可能性のある考察がヒントのようにいくつか紹介され、さらに「書評」として、何冊かの当時出版された本の、ある意味手厳しい評が並んでいる。邦訳されていないものが多いのだろうと思われるが、その意味でも、昨今の研究と著作についての一定の情報がこのような形で得られるというのはありがたい。
 長く続いたこのシリーズ、いまはもうないのかもしれない。やや高価には感じるが、私はほどよい価格で買わせて戴いた。それぞれに刺激があり、研究現場の息が感じられるものだった。「他者」という意味で、哲学的な思索にはあまり関係がなかったが、聖書の中から様々な新しい視点を提供してもらえたのは嬉しい。一見遠回りだが、こうした研究の提供は、もっと必要になるだろうと思われる。日本にも神学雑誌のようにしてこうしたものがいくつかあるが、欧米の翻訳ものもさらに入手しやすければいいと願うものである。




Takapan
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