本

『田んぼの生き物図鑑』

ホンとの本

『田んぼの生き物図鑑』
内山りゅう
山と渓谷社
\3360
2005.7

 生き物が自然の中にこそ生きているべきであるとすれば、本来田圃などという所は、生き方の邪道であるのかもしれない。人間が、人間のためにこしらえた人工の場所、釣り堀のような囲いの中でしかないような、田圃の中に生息する生き物なんぞ、およそ自然の名に値しないなどと言われても仕方がないのだろうか。
 ところが、その田圃の中で、一つの生態系ができているとすれば、評価も変わってくるだろう。さらに、田圃なくしては、私たちにはもはや見られなくなった生物が数えられるとすれば、皮肉なことに、田圃こそ、生物の棲む自然であると言わなければならなくなってくる。
 田圃に注目する動きは、少なくない。人間が自然を利用して生きていくことが、他の生物とのバランスの下に成り立っているものだとすれば、田圃は一つの注目すべき環境であるからだ。つまり、上に誤解したような、自然なる概念は、人間という主体を忘れ去った、悪しき客体観に基づくものでしかなく、人間もまた自然の一部であり、その一部としての人間である主体が語るがゆえに、人間と生物とが一つの環境で共に生きていることを基本に置くのでなければならない、というわけである。
 それはそうと、この本が優れている他の面として、田圃という、身近な(と言わせてもらおう)世界を見て、そこに見つかる生物を網羅したことを挙げていきたい。つまり、従来図鑑と言うと、あまりにも身近な場所で普通に見られるものをわざわざ取り上げることはなかった。身近にいる生物についてまとめようとすれば、時に山野草の図鑑を必要とし、時に両棲類の図鑑を開かせ、時に昆虫図鑑を探させるというものであった。
 だが、身近に出会う生き物という概念で考えると、それを植物や昆虫などに分類すること自体が間違っていることに気づく。生き物全体がどのように関わっているか、そこに人間がどう含まれるか、そういった問題意識が芽生える時代となったのである。そのためには、分類学に基づく分け方で生物を集められても、分からない。まるで、AからZまで順に並んだ英単語集を見ても英語が分かるわけではないのと同じである。シチュエーション毎に発生する会話や文章を効果的に蓄えていかなければ、英語が使えることにはならないのである。
 こんな魅力的な図鑑と共に、自分自身の立っている場所の周辺を強く意識する。環境問題とは、そういうところから始まらなければ、何にもならないような気がする。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります