本

『大衆の反逆』

ホンとの本

『大衆の反逆』
オルテガ・イ・ガセット
神吉敬三訳
ちくま学芸文庫
\880+
1995.6.

 Eテレ「100分de名著」を見て、これはいいと思いテキストを購入した。すると益々読みたくなって、原典に触れた。これが経緯である。名前だけは聞いていたし、なんとなくは分からないでもなかったが、ここへきて俄然面白くなった。私の感じ方と近い。いま私が読むべきだったのだ、ということを確信している。
 大衆、その語の定義が重要だ。オルテガは、第一次大戦から第二次大戦の時代の中で感じとる空気があって、19世紀からこのかた社会が、人々がおかしくなってきている、その分析をここでしていることになる。しかも、それは形而上学的でもないし、学問的とは言い難いものがある。言うなれば、ジャーナリスト的な叙述を以て、私たちに、それまで気づかなかった世界を気づかせてくれる哲学である。ソクラテスの方法にも通ずるような、画期的な問いかけであったのではないかとすら思う。
 オルテガの思想について私がとやかく説明するよりも、他にすぐれた解説があるわけで、何も本書の説明を施そうなどという大それたことは考えていない。それで感想めいたものを綴ってみたいと思うが、まさにいま日本で読んで考えるべきことがたくさん詰まっているような気がした。それは、単純に日本が独裁的になっているとか、そういうことではない。問題は実のところ私たち一人ひとりに返されている。私たちはまさに大衆として、この文明を謳歌し、しかしその根拠や背景についてはあまりにも無反省に過ごしていて、自分をひとかどのものであると錯覚している。いわば私たちは一人ひとりが、みな王様になっているのだ。
 これは世代を追う毎に度を増している。戦争を味わった世代は、その苦しみや忍耐を生き経験したのであるが、それを我が子には味わわせたくないという意識や、経済復興を第一として上を見て誰もが足並みを揃えて歯を食いしばってきたのだろう。その子の世代は自由主義の中で育てられ、また親のこの愛情を受けてすくすくと育まれてきた。さらにその世代が親となり、かつてバブルすら体験したあたりまえの贅沢を普通のこととした中で子育てをしてきたとなると、三代目が店を潰すなどと言われるように、かなり危うい時代環境が調っていることになりかねない。さらにそれもまた親となってきたが、今度は不景気の中でしか生きたことのない世代が、卑屈とまでは言わないが、華やかな発展を知らない停滞時代を自分のアイデンティティとして、いま次の子を生みだそうとしている。大衆の色彩が増し、誰かが気づいて舵取りを考えないと、オルテガが懸念する方向にどんどん流されていくような危惧を覚えるのである。
 貴族という言葉が出て来る。よくよく説明を読んで受け取らないと誤解が生じる。ノーブルな見方は、単純なこの大衆の中に紛れてしまうのではなく、いわばひとり哲学することのできる精神であるとも考えられる。わがままになり、不満は暴力でしか解消しないようなあり方は逆にまた、強大な権力の暴力の前で純朴に従う、またさらに暴力の僕となっていく危険性がある。それを見定め、抵抗する精神が、時代の中に根を張るようなことはできないだろうか。わずかな気づきによって、これではいけないと民主主義の武器である「数」となっていくことはできないだろうか。
 オルテガは「慢心しきったお坊ちゃん」の時代を指摘している。一人ひとりの能力する人間たちが、狭い専門分野に押しやられていく様は、全体を見渡す能力を、思慮ある人々から奪っていく。のほほんと喜んでいるような環境は、文明的にもいまは普通だが、その中で何かしら利用されていくかもしれない危なさを、私たちはどのくらい自覚しているだろうか。
 ここでは、近代ヨーロッパを取り上げて、それがもたらしたものを熱く語っていることになるのだが、何もヨーロッパに制限する理由はない。オルテガの説明の軸としてヨーロッパが持ち出されたのはそれでよいが、日本は違うぞなどと言い始めたら、それこそ危険である。世界を見張る眼差しを、本書をひとつのフィルターとして、もつことはできないだろうか。




Takapan
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