本

『食べることの哲学』

ホンとの本

『食べることの哲学』
檜垣立哉
世界思想社・教養みらい選書002
\1700+
2018.4.

 分かっている。人間は、何かを殺して生きている。分かっているのだ。だが、そうしなければ生きていけない。ん、ベジタリアンは大丈夫? 植物が生きていないとでも言うのだろうか。何かを殺しているということを免れることは殆どできない。せいぜい無精卵と牛乳だけで生きていこうか、とでも思わないかぎり。
 日本の仏教は、殺生を戒めていた。精進料理などというものも考えたが、それは肉なる動物を殺すことで勘弁してもらうものだった。そのため、魚はよいのだとか、自分が殺していなければ差し支えないとか、苦し紛れの理由を付け足すこともあったらしい。
 どうしても、他の何かを殺さなければひとは生きていけない。そこに罪深さを見る人たちもいた。だったら、人間はそのように罪深い生き物なのだ、終わり、としておけば済むことであるかもしれない。
 だが、食べるということをこうして開き直って片づけることは、知的にも、また自己へのこだわりりからしても、もったいない。人間存在そのものに、アプローチできるチャンスかもしれないのだ。
 著者は、食と性との関連を前提としている。この点は、議論の中ではそう登場しないが、本の最初と最後に顔を見せる。生きるということについて、その個体の保持ならば食、その種族の保持ならば性、どちらも、生きるために必要なことである。だから、食だけしか頭になくて語り続けても、性に無関心に走ればよい道を進むことはできないだろう。これは私は大いに賛同する。逆にまた、性について考えるときにも、食とパラレルに考えねばならない場面はきっとあるはずだ。
 人間は、殺戮を善いことだとは考えていない。だが、食べることに関しては、殺すことを是としている。それから、その食べるということにしても、人間自身を食べることはタブーとされている。いや、極限状況ではそれさえ冒されることもあるし、またカニバリズムという名で、密かに憧れる精神も存在する。こうした点を踏まえて、食について考える営みは、意義深いものである予感が断然するではないか。また、殺生で人間自らの命を守ることを肯定した上でも、文化により、食べてよい動物と食べてはいけない動物とを区別しているのは何故だろうか。牛や豚や鶏は、人間の食になるために存在しているのだろうか。犬はダメなのか。鯨は日本人にとり食文化だが、西洋人はそれを野蛮と一蹴する。これがイルカになると、あの『ザ・コーヴ』という映画があったように、執拗にイルカ猟にエコテロリズムで攻撃してくる者もいる。
 本書は様々な領域の話が飛び出してくるため、フィールドワークをしているような気持ちにさえなってくるのだが、最初のほうで実は大切なモチーフが、少し分かりにくく登場している。それは、発酵について触れたときに、「人間は毒を食べる」のだというテーゼを、哲学的に重要だと述べている始まってすぐのところである。このテーゼには傍点が付されているものの、地味に見える。しかし、よく見ると括弧付けで、この問題は全体の議論を包むようにしたい、とちゃんと書いている。私はこれを軽く見てしまっていた。新たな読者は、ここを心に掲げておくとよいのではないかと思う。実はこの序章が、確かに全体の構造を見事に端折っていたのだが、まあ謎解きは後からゆっくりすればよいのかもしれない。
 世界の食文化は、先ほどのタブーに関するものばかりとは限らない。日本文化ではあらゆる食材と調理法があるのでむしろ気づかないが、世界の伝統料理では、煮るものがないとか、すべて焼くだけでおしまいとか、調理法について単純に決まっているというところが少なくない。アジアはバリエーションに富んだほうだという。食文化は、自然把握にも関わるところがあるのであろう。
 そしてカニバリズムという名のもとに、かなりエグい話が展開する。法的に、人肉を食ったことそのものが罪になることは少ないという、ショッキングな指摘もあった。それは臓器移植の問題にも踏み込むし、なんとアンパンマンとは何かという点まで議論される。しかしこのカニバリズムの発想は、宮沢賢治が描く世界でいくらか芸術的なものに昇華されることになり、読者はほっとするかもしれない。
 私にとりリアルに心をぶち抜かれたのは、「豚のPちゃん」の話である。もちろん知っている。映画化されたものも見た。教育上の問題として扱われもしたが、この食という哲学の中でこれを外すことは確かに難しいだろう。小学校で子どもたちで、いずれ食べるという約束で子豚を飼う。生命の授業である。しかしいざその子らが卒業するときに約束を果たそうとすると、殺せないということで、大議論になる。その経緯と結末が紹介され、子豚を飼うことにした教師の責任は何だろうかということが検討される。その結論として、「正しく無責任であったのだ」ということになるのだが、これには私も共感できる。無責任なのだ。だが、無責任であることがそのまま謝りであり悪なのかというと、そうとは言えない。まるで、人間が矛盾を抱えたまま、悪なれど生きていくように、無責任さは認めねばならないし、それもまた正しいことなのだという捉え方は、間違っていないと思う。
 養殖ウナギが女子高生の姿をとった地方のアピールCMが猛攻撃を浴びたのは何だったのか。確かに一面まずいとは思うが、それは食することに関してではなかった。それは、Pちゃんのケースと実は対照的な構造がある、ということなのだが、それをいまここでご紹介することはできない。
 この後は、例のイルカ猟の話、そして約束通りまとめにかかってきた上で、どんでん返しのように、「食べない」こととは何かを考えることによって、食の全体像をぬかりなく見ておこうということになる。食べずに死ぬ宗教的行為の珍しさと、ダイエットや拒食症の意味するもの、そして断食についても触れた上で、食文化の未来を展望する。
 刺激の多い本であった。きわめて日常的な事柄の中に、なんと深い、存在の根本に迫る問いが投げかけられることか。哲学とは元来そういうものであった。ひとが当たり前と思っていることに、果たしてそうか、そもそもどうなのか、と問いを発する。考えてみれば生きるために万人が食べている。誰もが行っていることの根拠について、人類はどれほど問いを深めて来たことであろうか。まさに、食べることについて哲学することは、自分を知るということでもあり、未来を考えることでもありえたのである。
 裏表紙には「エッセイ」だと書いてある。この粋が、また好きだ。




Takapan
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