本

『修養』

ホンとの本

『修養』
新渡戸稲造
たちばな出版
\1300+
2002.7.

 新渡戸稲造。以前の5000円札で思い出す人もいるかもしれない。あるいは『武士道』で世界的に有名な日本人だ、という方もいるだろう。国際連盟で活躍した日本人だということでご存じかもしれない。東京女子大初代学長であるとか、貴族院議員であったとか、実務においてすばらしい履歴をもつ。他方、青年教育のためにも多大な労苦を負っており、本書もいわばそのひとつの結実である。
 むしろ、新渡戸稲造といえば「教育者」だ、という理解も多いという。そのことは、本書のあとがき的な解説の中でも触れられている。本書は、明治末に出版されてから昭和9年までに、なんと148版を数えるロングセラーであったのだという。執筆当時、第一高等学校校長を務めていたというが、その多忙の中で、働く青年たちにも呼びかけるようなこの本を、新渡戸稲造は心をこめて書いた。この新たに読みやすい形で提供された本でも500頁を超える分量をもつわけで、これを愛読した若者が多かったという時代、若者たちの読書欲や本への気持ちの向かい方は、ただならぬものがある。もちろん、すべての若者に教育が行き渡っていたわけではない。しかしこの本では、なんとか文字が読めるのであれば、呼びかけるような口調の内容は、きっと心に入っていく。その意味でも、本というものの価値が、今とは違うのだと改めて感じる。
 そもそも、である。タイトルにある「修養」という言葉自体、今の時代には死語のようなものではないだろうか。意味が分からない、という若者の顔が浮かぶようだ。意味が分かったとしても、自分たちの生活には「修養」などというものは感じられない、つまり関係がない、そういうものとして受け止められるのではないだろうかと懸念する。
 では、「修養」とは何だろう。自らを高めることであろうか。逆に謙遜になる道であろうか。人格を養うことだろうか。立派な人間になるための知恵であろうか。よく生きることを目指す生き方かもしれない。新渡戸稲造自身は、最初の「総説」において、「修」と「養」に分けて、長い言葉による説明でこのことを提示している。その説明に、立派な人の言うことは味がある、というような感想を抱くのもよいが、これはクリスチャンならば分かる。結局新渡戸稲造の頭の中には、イエス・キリストの姿が浮かんでいるに違いない、と。キリスト者でもある新渡戸稲造は、聖書について熟知している。クェーカー教徒という、信仰生活において徹底した実践を伴うグループの信仰をもっているので、実際の生き方としても、謙虚で質素でまっすぐである。一般的な言い方をしているようで、背後に聖書があるからには、できれば信仰をもってほしいという願いも隠れているだろうとは思う。しかし、中を読む限り、そんな色気は微塵もない。確かに、ときおり聖書のことが持ち出されるが、それは説明のためだ。別には仏教や儒者の話なども混じってくるわけだから、特別本書がキリスト教の宣伝のために用いられているという印象は全くもたない。これが教育という立場から、優れた態度である。宗教のどれを信じるかということで差異をもたらすならば、それは一般教育ではなくなってしまう。
 なにしろ分厚く長い叙述である。ここに項目を挙げるだけでも疲れてしまいそうである。しかし、読みにくいという部分はどこにもない。むしろ、新渡戸稲造自身の失敗談や思い出話など、親しみがわくような書き方がそこかしこにある。こうまで自分の人生についてあけすけに語るということも、珍しいのではないだろうか。語りかける相手は青年。青年とは何かという問いかけに始まり、立志・職業選択・決心継続・勇気・克己・名誉・貯蓄・読書法・逆境・順境・世渡り・道・黙思と並ぶだけで、頭がどんどん下がってくる。この後、夏と冬の知恵について述べられ、書は閉じられる。
 さしずめ、「ためになる話」とでも言おうか。堅苦しい内容ではないから、若い人々にこれを読んでもらう、どういう感想を抱くか、聞いてみたいものである。
 なお、時々「日本人というものは……」というような評価がある。「最近の日本人は……」も多い。私はそこに、本筋とは関係なく、非常に魅力を感じた。というのは、今のおじさんがこれを書いた、と現在もってくれば、けっこう今もまた同じなのだということが分かってくると思われるからだ。文明論のようなものとしても、楽しめる部分がある。いや、それは不謹慎か。やはり「ためになる」本であり続けてもらいたいものだ。




Takapan
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