本

『「集団自決」を心に刻んで』

ホンとの本

『「集団自決」を心に刻んで』
金城重明
高文研
\1800+
1995.6.

 沖縄戦についての資料は、だいぶ前にいろいろ揃えた。そのころには、実際に沖縄を訪ねたときに、初めて見る地元の出版社のものなどで、市井にもその他はあまり見出されなかった。いまはインターネットでいくらでも検索できるし、家に届けてくれる。
 しかし、牧師の方のものとなると、いまでもそうあるものではない。しかも、集団自決の現場にいて家族を目の前で失うという、壮絶な情景の中でなんとか生き残ったというような体験をもつというのは、驚きである。その人が、牧師となった。
 さらに、教科書裁判に関わり、教育に関するただならぬ関心を以て生きていく。本書は、この著者の自伝であり、また戦争と平和に対する思いを、これ以上ないくらいの体験をもつ者として訴えるものである。
 沖縄戦の現場だけではない。そこへ至る前の、沖縄の位置をまず分析する。もう先に言うが、本書は「皇民化教育」を徹底して見つめ、ある意味で断罪し、警戒をすることを伝えるものである。
 その上で、沖縄と本土という独特の位置づけがある。その歴史の古くを辿ることが目的でないので、著者は戦争の時代の生活の様子をよく伝える。実際にどのようであったのか、生々しい記憶から引き出して教えてくれる。
 渡嘉敷島では、痛ましい集団自決があった。平和だった島が巻き込まれていく様を伝えるために、慶良間配備の海上挺身隊や特攻隊のことも教えてくれ、ついにその日が来た、その時の惨状を告げる。思い出すだけでも苦しい出来事であるが、それを後のキリストにあって立つ信仰の中で、乗り越えていかれたのだろう。頭が下がる思いしかない。
 戦後、自分がどのようにして聖書と出会ったのか、そして伝道者を志願するに至る過程と、学びの生活を細かく書いている。青山学院大学に留学することが許される稀有な存在であったが、このとき沖縄は米軍統治下にあり、日本ではなかった。パスポートを取って、留学するのである。さらに学びにおいて懸命だった著者は、アメリカ留学も果たす。後には、沖縄キリスト教短大の創立に関わり、その建設や維持などの問題に奔走することも細かく本書には刻まれている。
 この著者のすごいところは、やがて集団自決のことを語り始めることである。口にするのも恐ろしい、また悲しい記憶は、できるならば思い出さないくらいにしたいものであろう。それでも頭から離れることのないこの惨劇を、さらに他の人々に語り続けるというのは、どんなに難しいことかと驚く。
 いわゆる家永裁判ともいわれる教科書裁判にどうして関わるようになったのかというと、沖縄戦の記述について検定か通らなかったことが辛くて、またそれが間違っていることへの憤りがあって、証人となることを承諾したというのである。これもまた、他人の前で、しかも今回はその発言を快く思わない相手を目の前にしての裁判への参加である。
 ドイツのありさまとの比較も行い、さらに天皇の戦争責任の問題にも言い及ぶ。当時タブーとされていたことでも、戦争犯罪ということを適切に考慮していかねばならなくなっていたのだ。そして著者はキリスト教平和学と名をつけて、聖書に基づく平和、しかも第二次大戦を十二分に振り返って、これからを歩んでいくのだという姿勢を示す。
 事あるごとに、登場していたのが、先に挙げた「皇民化教育」である。一種の洗脳のように人々を陥れるものである。教育とは何か、私たちも考えなければならない。また、やはりあの集団自決はどうしようもなくこの著者のスタートであり、また土台でもある。それに軍は命令を下してなどいないというふうに逃げているのがいまの世における一つの結末なのであるが、著者は言う。日本兵のいないところでは、集団自決は起こっていない、と。そしてその国民を守るなどというカッコイイ言葉で囲まれた日本兵が、どんなに残酷なことを沖縄の住民にしてきたか、それを本書で証言している。
 こうした指摘、並びに証言を、キリスト者としての立場から語ってくれるというのは、実によいことだ。私はこうした声を聞きたくて、本書に出会った。信仰を以てこの事態に関与するという証言は、あまり聞いたことがない。だから、これは貴重な書である。キリスト者にも沖縄戦を詳しく知ろうとする人はいる。そのとき、信仰の目で見たこのような体験は、大いに参考になるだろう。
 悲しい本である。辛い本である。だが、キリストにある者として、これを著してくれたことを感謝する。地味な本だが、関心をもたれた方は、まだ市場に出回っているし、古書としてでよければ数百円で入手できる。味わってみて戴きたい。




Takapan
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