『主の祈り イエスと歩む旅』
平野克己
日本キリスト教団出版局
\1300+
2005.5.
主の祈りについて以前購入していた本を読み返した。つもりだった。が、読んだとなるとこの場に何か書いているはずであるが、どうやら私は書いていない。ということは、読んでいなかったのだろうか。読んだ気もするし、読んでいないような気もする。私の読書というのは、その程度のことなのかもしれない。
決して学問的な効果を狙ってのことではない。しかしまた、説教集というわけでもない。いうなれば、エッセイであり、自由な黙想と呼んでもよいかもしれない。主の祈りをモチーフに、そしてその一つひとつの言葉を手がかりに、しばし聖書の世界に思いを馳せる。
それは「聖書」研究ではない。だから、「国と力と栄えとは……」も含む。「教会」という舞台で扱う「主の祈り」は、マタイ伝の中の記事を軸としながらも、それと同一ではない。いわゆる「ディダケー」と呼ばれる、使徒たちの教訓の書の中には、「主の祈り」としてその部分が付け加えられており、教会はそれを伝統の祈りとしたのである。「ディダケー」も、実は新約聖書の一部の書が書かれたのと、時代的には殆ど違いがないと言われるから、教会は初期の時代から、これを祈っていたのかもしれないと思われるのである。
そうした背景については、本書が議論するところのものではない。日本キリスト教書販売から毎月出版されている『信徒の友』誌に、2004年度に連載されていた記事がここに一つの本となった。長い記事でもないわけであるし、読者層が一般キリスト者であるために、信徒ならば読みやすく、また心に染み入るような呼びかけに満ちている、そういう文章になっているように思う。
一句一句を検討するに先立ち、著者はまず問う。これは本当に私たちが祈る祈りなのか。何か引っかからないか、という意味である。それは「祈りの言葉のひとつひとつが、わたしたちの自然な心の動きに逆らってくるせいかもしれません」というのだ。
そう。信徒は言い慣れている。頑張って覚えもするだろう。すると、祈りの言葉が決まり文句となって、口から自然に出ればそれでよい、と思い込んでしまう罠がある。だがイエスは、ルカ伝によると、弟子たちが祈ることを教えてほしい、と願ったときにこの祈りを挙げ、マタイ伝によると、祈るということについて教えている中で、だからこう祈りなさい、と手本を授けたようなことになっている。
著者はこの最初のところで、「アンチ主の祈り」を示す。私はここに、この連載のスタンスをはっきりと見ることができたと思った。私たちが、如何に神から離反しているかを見せつけられるからだ。全部ばらすのは忍びないが、一部をここで示すことをお許し願いたい。
そばにいてくださるわたしの神よ
わたしの名を憶えてください
わたしの縄張りが大きくなりますように
わたしの願いが実現しますように……
私たちは、「こう祈りなさい」とイエスが言ったことは知っている。だが、私たちは祈りにおいて、ああしてくれ、こうしてくれ、私はこんな目に遭っている、そんなことばかり口にしていないだろうか。自分に都合の好いことを神に願い、「信じます」などと言っていないだろうか。すなわち、最後に「アーメン」と。
特別な知識や理論や教義が並べられている本をお望みなら、本書はお薦めしない。素早く目を通して一応の理解をしたいのが目的なら、本書はお薦めしない。だが、少ない言葉を、自分自身の問題として受け止める機会を得たいと望み、ありふれたような言葉を一つひとつゆっくりと噛みしめるように自分に向き合わせて、時に苦い言葉であっても、味わって呑み込もうとするのなら、本書は抜群の相性をあなたに思い知らせることだろう。
イエス・キリストと出会った経験をお持ちか、その経験をぜひと求め、あなたが当事者となって、祈りの世界に身を委ねることを欲するならば、その願いは、本書によってきっと叶えられることだろう。
そして、聖書を読むときにも、このように読めばよいのだ、ということを学ぶことができることだろう。その旅の始まりに相応しい、ガイドブックであると思うのだ。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド